津城(読み)つじょう

日本の城がわかる事典 「津城」の解説

つじょう【津城】

三重県津市にあった平城(ひらじろ)。同県指定史跡。江戸時代には津藩安濃津(あのつ)藩)の藩庁が置かれた城。同県指定史跡。伊勢国の有力国人長野信良が、1571年(元亀2)に現在の津市の中心部に築いた城郭である。この城のあった安濃津(今日の津市)は当時、港湾都市として繁栄していた要衝だった。伊勢を征服した織田信長は、攻略した津城に津田一安を入城させたが、その翌年の1568年(永禄11)、弟の織田信包を長野氏の養子嫡子)として津城に入れた。信包は信長の命により津城の拡張に乗り出し、石垣と堀を巡らせて本丸・二の丸・三の丸を整備し、1577年(天正5)には5重の天守小天守を完成させ、1580年(天正8)には城の拡張を終え、近世の城郭に変えた。1594年(文禄3)、織田信包は豊臣秀吉によって安濃津から丹波柏原陣屋(兵庫県丹波市)へ移され、秀吉家臣の富田信広(長家、一白(いっぱく)とも)が5万5000石で津城に入城したが、1599年(慶長4)信広は病死した。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いでは、信広のあとを継いだ子、信高(初名知信)は東軍(徳川方)に属したことから、津城は毛利秀元・長宗我部元親、九鬼嘉隆ら西軍(豊臣方)3万の軍勢包囲攻撃を受け、城は天守とともに焼失城主の信高は降伏し、剃髪して高野山に移った。この攻城戦で、信高が絶体絶命の危機に陥ったとき、一騎の騎馬武者が駆けつけ、信高の撤退を助けたが、この騎馬武者は信高の妻であったという逸話が残っている。関ヶ原の戦いの後、信高は徳川家康から旧領を安堵されたうえ、2万石を加増された。1608年(慶長13)に富田氏が伊予(愛媛県)宇和島12万石へ国替えになったことに伴い、伊予の今治城(愛媛県今治市)から藤堂高虎が入城し、伊勢・伊賀22万石を領有した。高虎は家康の命を受けて大坂城の豊臣方に備えるため津城の大改修に着手し、現在残っている縄張りと高石垣を持つ城に変えた。大坂の陣の後、高虎は32万3000石に加増されている。寛永年間(1624~43年)には三重の天守と二重の小天守をもった城として描かれているが、これは富田氏が再建したものとされている。しかし、この天守は1662年(寛文2)の火災で焼失し、以後、再建されることはなかった。津城は高虎以来、代々津藩の藩主の藤堂氏が城主をつとめ、明治維新に至った。1871年(明治4)の廃藩置県により廃城となり、城内の建造物は破却された。その後、城跡はお城公園として整備され、1958年(昭和33)には模擬隅櫓(すみやぐら)が建設された。現在城跡には藩校有造館の正門の入徳門が移築現存している。なお、本丸・西之丸と周囲の水濠以外は市街化しており、遺構は残っていない。近鉄名古屋線津新町駅から徒歩約10分。◇安濃津城ともよばれる。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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