伊勢(いせ)の津(つ)(三重県津市)または津港の古称。明人(みんじん)が薩摩(さつま)の坊津(ぼうのつ)、筑前(ちくぜん)の博多(はかた)津とともに日本三津(さんしん)の一つにあげたほどの有名な港。古来、ここは伊勢神宮への供米を送る積出し港であり、北からの神宮への供祭物輸送船の寄港地。平安時代、平維衡(これひら)が伊勢守(かみ)となり、その子貞衡(さだひら)がここに土着し、平氏一族は桑名(くわな)、白子(しろこ)の要港とともに根拠地とし勢力を広げた。鎌倉時代も商港として繁栄。室町時代、将軍足利義持(あしかがよしもち)・義教(よしのり)が参宮の途次宿泊したとき、すでに4000~5000軒の町並みがあったという。1498年(明応7)大地震があり、ここは陥没し、港としての生命を失う。1522年(大永2)参宮の帰途ここを通った連歌師宗長(そうちょう)はその衰退ぶりを『宗長手記』に述べている。
[原田好雄]
『梅原三千・西田重嗣著『津市史』全5巻(1959~1969・津市)』▽『原田敏丸・杉本嘉八他著『郷土史大系7』(1969・宝文館出版)』
伊勢国の地名。現在の三重県津市。元来は安濃郡の津の意。《中右記》嘉保3年(1096)12月9日条裏書に〈後聞,伊勢国安乃津民戸地震之間,為大波浪多以被損云々〉とあり,平安末期にすでに相当数の民戸を有する港であったことが知られる。遅くとも12世紀末葉には伊勢神宮領として安濃津御厨刀禰が設置されていた。元徳期(1329-31)の〈安東郡専当沙汰文〉には安濃津市の名も見え,後世の記述ではあるが,明の茅元儀の《武備志》日本考では薩摩坊津,筑前花旭塔(はかた)津とともに日本三津の一つとされている。ところでこの津は《日本書紀通証》に〈安濃津,明応中地震後,津遷江浅,而大船難泊〉とあるように,明応7年(1498)8月25日の地震津波で港の機能を失い廃れた。1522年(大永2)連歌師宗長は〈此津十余年以来荒野となりて,四五千軒の家堂塔跡のみ,浅茅蓬が杣,誠に鶏犬は見えず鳴鴉だに稀なり〉(《宗長手記》)と記している。
→津[市]
執筆者:西山 克
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…中世の伊勢には東国に多数分布する伊勢大神宮領から送進される年貢物の集散や陸揚げを行う大湊など港津が発達し,また畿内と東国を結節する地理的条件に恵まれたため桑名のような自治都市の成立もみられ,多くの廻船業者,問屋が輩出した。安濃津(あのつ)(現,津市)も大神宮領からの年貢物の取扱い,さらには海外貿易港として発展し,山田の三日市・八日市には多数の市座商人や土倉がたむろし,活躍していた。これら商人の中には大湊の角屋氏のように海外貿易に進出するもの,後北条氏の城下町小田原に進出して住みつくもの,さらには遠く会津若松など東国に行商を行うものも現れた。…
…維衡ののち一族は伊勢全土から伊賀,尾張,三河にまで繁衍(はんえん)する。この中には伊勢,安濃津(あのつ),桑名,富津(とつ)あるいは柘植(つげ)といった伊勢・伊賀の地名を冠して呼ばれる者もあった。維衡の曾孫正盛,その子忠盛の代に至り白河・鳥羽両院政の下で中央政界に頭角を現した平氏は軍事権門へと成り上がる。…
…【成田 孝三】
[津城下]
伊勢国安濃郡の城下町。古くは安濃津(あのつ)と呼ばれ,博多津,坊津(ぼうのつ)と並ぶ三津の一つであったが,15世紀末の地震によって港湾としての機能は弱まり,一海浜農村になった。近世には単に津と呼ばれることが多かった。…
※「安濃津」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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