津田村(読み)つだむら

日本歴史地名大系 「津田村」の解説

津田村
つだむら

[現在地名]津田町津田

鶴羽つるわ村の西、寒川さんがわ郡北部に位置する。東は津田湾に面し、北西のとらガ鼻から南東の鵜部うのべ岬にかけて、津田湾沿岸に砂浜がつづく。北方きた(二九六・六メートル)から南方雨滝あめたき(二五三・二メートル)に連なる山地と海浜の間の狭い平地部に集落が広がる。中央部を西から東に津田川が貫流。北山山頂に弥生中期の高地性集落跡があり、津田湾周辺の丘陵地に吉見稲荷山よしみいなりやま古墳・弁天山べんてんやま古墳・北羽立きたはりゆう古墳・宮奥みやおく古墳・龍王山りゆうおうざん古墳・岩崎山いわさきやま古墳群などがある。いずれも前・中期の古墳で、被葬者は海上交通にかかわった豪族と考えられる。寛喜二年(一二三〇)正月日の宗清置文(石清水文書)に、山城石清水いわしみず八幡宮田中坊領の若宮長日灯油料のうち、閏月分七升二合を「津田坂子」が負担したとみえる。この地は正嘉二年(一二五八)七月日の柳紹清申状(塚本文書)に、石清水祠官紀道清から娘明信へ譲与され、のちに石清水権別当教清が奪い取ったとある「讃岐国津田坂子」のことで、坂子さがし鴨部中筋かべなかすじ(現志度町)に小字として残る(志度町の→鴨部庄安富氏が雨滝城に拠ると城下の町場を形成、「讃岐国名勝図会」に津田浦は「安富氏の領所にて、今もそのときの町家のこりたるにて、街花をなして繁昌なり」とある。

寛永(一六二四―四四)初年頃の生駒家家老連署状(松原文書)によると、生駒家家臣松原玄雪が生駒正俊から志度しど(現志度町)の塩浜の薪として、津田北山の下刈を許されている。寛永国絵図では鶴羽庄のうち。寛永一七年の生駒領高覚帳によると津田村の高五六三石余。同一九年の高松領小物成帳には津田浦の綿一七三匁、御菜として津田村の米五石七斗六升が記されている。天保九年(一八三八)の御巡見御通筋諸事書上帳(山下文書)によると田方六二七石余・五〇町四反余、畑方二五六石余・四七町三反余。夏成は麦八二石余・真綿二一四匁余・薪一〇六束(代銀四二匁余)、御林三、自分林六(運上銀七三四匁余)、人数三千五六・家数七七一。池は山田やまだ池・御座田ござでん池ほか五四。牛一〇三・馬六。弘化四年(一八四七)の免別帳(津田町史)によると、古田畑・屋敷が七四町二反余で高七三二石余、新開が二二町六反余で高一六四石余。

寛政(一七八九―一八〇一)初年頃から村内北羽立辺りを中心に甘蔗の栽培が盛んになり、寛政六年には運上銀が賦課された。

津田村
つだむら

[現在地名]佐伯町津田

浅原あさはら村の北東にあり、木野この川上流の盆地状の平地に開ける。中央を石見津和野路が東西に通り、街道沿いに集落が展開する。制札場と宿駅が置かれ、佐伯郡山間部の中枢的な位置を占めた。仁和二年(八八六)頃当地は戸数わずか七戸にすぎず、津田某なる者が山野を開拓したという伝えがある(佐伯郡誌)

永正一七年(一五二〇)三月五日付の吉原親直本領坪付注文(「譜録」所収吉原市兵衛家文書)に「津田」とみえ、「後太平記」に「津田の庄」ともみえる。天文二三年(一五五四)から翌弘治元年(一五五五)にかけて当地は陶氏と毛利氏との合戦場となり、「後太平記」「陰徳太平記」などに記される。戦後は毛利氏の支配地となった。弘治三年一〇月一三日付の毛利隆元判物(「閥閲録」所収渡辺太郎左衛門家文書)に「山里津田」とあり、当時は山里やまざとと総称された地のうちであった。永禄三年(一五六〇)一一月一六日付の毛利隆元判物(同書所収児玉四郎兵衛家文書)には「山里津田畑之内所山名」、同六年八月一三日付厳島内外宮社役神事次第(巻子本厳島文書)には「外宮夜灯、山里津田之内鳥屋原在所、十八貫目御寄進也」とある。天正一三年(一五八五)四月二八日付粟屋元通譲渡証文書写(「閥閲録」所収粟屋縫殿家文書)によると、毛利氏家臣粟屋元通・同元定が当地の代官を勤めており、また「津田の畑飯山」と記す。

津田村
つだむら

[現在地名]枚方市津田〈もと町一―四丁目・駅前えきまえ一―二丁目・きた町一―三丁目・西にし町一―三丁目・ひがし町一―三丁目・みなみ町一―二丁目〉・津田・大峰おおみね〈北町一―二丁目・元町一―二丁目・東町・南町〉・穂谷ほたに一―二丁目・高野道こうやみち一丁目・長尾台ながおだい一―四丁目・すぎ一丁目・杉山手すぎやまて一―三丁目・北山きたやま一丁目・氷室台ひむろだい一丁目・春日北かすがきた町五丁目・春日東かすがひがし町一―二丁目・春日野かすがの二丁目・野村のむら〈北町・なか町・南町・元町〉・山田池南やまだいけみなみ町・藤阪天神ふじさかてんじん町・藤阪東ふじさかひがし町三―四丁目・宗谷そうや一―二丁目

生駒山地の西部延長部の麓で、村の北端を西流する穂谷川の谷口扇状地に位置する。交野かたの郡に属し、東高野街道の支道山根やまね街道に沿い、北は藤坂ふじさか村、東は杉村・尊延寺そんえんじ村。尊延寺村穂谷村の東と穂谷村内に飛地がある。津田三ッ池つだみついけ遺跡からは先土器時代のナイフ形石器や石核・剥片が出土し、縄文前期の石鏃・石匙が採集された。穂谷村中の飛地屋形やかた三之宮さんのみや神社が鎮座するが、正嘉二年(一二五八)の棟札写(「当郷旧跡名勝誌」所収)に「津田郷」がみえる。

津田村
つだむら

[現在地名]白石市白川津田しらかわつだ

東は小奥こおく村、西は犬卒都婆いぬそとば村、北は内親うちおや村に接する。西端部を高田たかだ川が北流し、北は白石川が村境の一部をなす。高田川はしばしば氾濫し流域民を苦しめた。村域内には縄文晩期から弥生時代にかけての遺跡がある。周辺の村に比較して沖積地が多く、早くから開発された。天文七年(一五三八)の段銭古帳に「仁十貫百五十文 つたのかう」とある。伊達氏天文の乱後、晴宗は「遠藤ひせん」に対し「刈田のせうつたのかう、山崎ひこ七」の知行地を与えた。「山崎ひこ七」は伊達だて山崎やまざき(現福島県伊達郡国見町)を本拠とする東党(稙宗方)の地頭とみられ、乱後は乱開始前の知行地の安堵と「伊たて西ね山さきのかう」が遣わされている(晴宗公采地下賜録)

津田村
つだむら

[現在地名]益田市津田町

津田川河口流域に位置し、北は木部きべ村、南は遠田とおだ村。地名は益田郷の津に由来するという(石見八重葎)。中心集落は津田浦にあり、益田から浜田に向かう道から東仙道ひがしせんどう(現美都町)に向かう道が中津田・上津田の集落を結んで南下する。文禄四年(一五九五)一二月二七日の益田又兵衛当知行付立(益田家文書)に「浜辺郷津田一、屋敷数弐百十六ケ所」とみえる。江戸時代の支配の変遷は益田村と同じ。元和五年(一六一九)の古田領郷帳では高二九七石余、年貢は田方一五七石余・畑方二七石余。正保四年(一六四七)の古田領郷帳では高二九七石余、免六ツ二分。元和五年の古田領小物成帳に塩浜役銀四〇匁・猟船役二匁五分がみえる。安永六年(一七七七)の村明細帳(右田家文書)には田三九町余・畑二四町余、家数一二六・人口六〇二とある。

津田村
つだむら

[現在地名]貝塚市津田南つだみなみ町・津田北つだきた町・津田・ほり二―三丁目・小瀬こせ一丁目

津田川河口両岸にある南郡の村。西は大阪湾に面し、村域を縦断する紀州街道沿いに集落を形成し、堀新ほりしん町から貝塚寺内へ家並みが続く。天文二一年(一五五二)一二月二八日善春房田地売券(中家文書)に「ツタ左衛門」の名がみえ、善春房の田地売却の口入れをしている。「拾遺泉州志」によると、文禄(一五九二―九六)頃、当村に左衛門という代官格にとり立てられた豪農がいた。

津田村
つだむら

[現在地名]洲本市津田山手やまて三丁目

洲本府の南、曲田まがた山とその山麓一帯を占める。津名つな郡に属し、西は上物部かみものべ村。正保国絵図に村名がみえ、高四六〇石余。天保郷帳でも同高。当村は元禄(一六八八―一七〇四)以前は洲本府のそと町および洲本川沿岸部分を含む広い地域であったので、正保の村高は大きい。だが元禄以後外町地区は津田村の支配を離れ、村域は曲田山麓一帯と洲本川河川敷に限られることとなった。田畑も狭い棚田が大部分である。物部組に属した。反別戸数取調書によれば反別六町三反余、高七九石余、うち蔵入高六九石余、ほかに安覚あんかく寺薬師領一石余・二反余があった。

津田村
つだむら

[現在地名]小倉南区津田一―五丁目・津田新町つだしんまち一―四丁目・津田南町つだみなみまち・津田・葛原東くずはらひがし五―六丁目・長野東町ながのひがしまち西貫にしぬき一―二丁目・田原新町たはらしんまち三丁目

貫村の北、竹馬ちくま川右岸に立地する。宝永三年(一七〇六)検地帳(企救郡誌)では田畠四八町七反余。郷村高帳では高七四二石余、うち新田高二六四石余。幕末の各村覚書では本高四八八石余、田三九町余・畠九町七反余、物成二五三石余、竈数四二・人数一六四、牛一七・馬七、八幡宮・水神森、成就じようじゆ寺など。

津田村
つだむら

[現在地名]勝田市津田

早戸はやと川の右岸にあり、東は市毛いちげ村。弘安大田文に「津田十二丁」とみえ、那珂東郡の一郷であった。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「津田村」とみえる。字天神山てんじんやまに館跡、近くに五輪塔の並ぶ中世墓地があったが、いかなる豪族のものか不明。館跡は現在は団地造成のため崩され、五輪塔は津田共同墓地に移された(勝田市史)

寛永一八年の常州那珂郡津田村検地帳(軍司進氏蔵)によると戸数八四、うち屋敷持戸数四六、「水府志料」によると戸数およそ七六であった。同書によると「秣野」があり、「七間前、下砂沢、免野谷原三ケ所にて五町五反歩余あり。

津田村
つだむら

[現在地名]大里村津田

荒川右岸の沖積扇状地扇端部の氾濫原に位置し、東は江川下久下えがわしもくげ村および荒川を境に下久下村(現熊谷市)、西は向谷むこうや村、南は和田吉野わだよしの川を境に相上あいあげ村・玉作たまつくり村、北は津田新田村。荒川と和田吉野川に囲まれているため水害が多発し、集落は自然堤防上に集まっている。中世には津田郷のうちとされる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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