日本歴史地名大系 「津田村」の解説
津田村
つだむら
寛永(一六二四―四四)初年頃の生駒家家老連署状(松原文書)によると、生駒家家臣松原玄雪が生駒正俊から
寛政(一七八九―一八〇一)初年頃から村内北羽立辺りを中心に甘蔗の栽培が盛んになり、寛政六年には運上銀が賦課された。
津田村
つだむら
永正一七年(一五二〇)三月五日付の吉原親直本領坪付注文(「譜録」所収吉原市兵衛家文書)に「津田」とみえ、「後太平記」に「津田の庄」ともみえる。天文二三年(一五五四)から翌弘治元年(一五五五)にかけて当地は陶氏と毛利氏との合戦場となり、「後太平記」「陰徳太平記」などに記される。戦後は毛利氏の支配地となった。弘治三年一〇月一三日付の毛利隆元判物(「閥閲録」所収渡辺太郎左衛門家文書)に「山里津田」とあり、当時は
津田村
つだむら
- 大阪府:枚方市
- 津田村
生駒山地の西部延長部の麓で、村の北端を西流する穂谷川の谷口扇状地に位置する。
津田村
つだむら
- 宮城県:白石市
- 津田村
東は
津田村
つだむら
- 島根県:益田市
- 津田村
津田川河口流域に位置し、北は
津田村
つだむら
津田村
つだむら
津田村
つだむら
貫村の北、
津田村
つだむら
- 茨城県:勝田市
- 津田村
寛永一八年の常州那珂郡津田村検地帳(軍司進氏蔵)によると戸数八四、うち屋敷持戸数四六、「水府志料」によると戸数およそ七六であった。同書によると「秣野」があり、「七間前、下砂沢、免野谷原三ケ所にて五町五反歩余あり。
津田村
つだむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報