原古に大洪水が発生し,それまでの人類,世界の秩序は滅び,その後に現在の秩序が確立され,現今の住民が繁殖したという洪水神話は,世界各地に広くみられるが,アフリカには,キリスト教やイスラムの影響によるものを除くと,土着の洪水神話とみなされるものはほとんどない。このような本格的洪水神話のほかに,原初には世界は水でおおわれていたという原初海洋モティーフや,氾濫していた水を制御したことを語る治水神話を,洪水神話の一種とすることもある。原初海洋モティーフは,北方ユーラシアから北アメリカにかけてなど,広く分布し,治水神話では古代中国のものがことに有名である。これらすべてに,混沌から秩序への転化という基本テーマが共通している。
洪水神話のなかで,記録がもっとも古くさかのぼるのは,古代シュメールの例であるが,断片的にしか知られていない。人類,動植物が創造され,天上に由来する地上の王権が創設され,五つの都市が建設されたのち,神々の集会で人類を絶滅することが決まった。シュルッパクの王ジウスドラは,ある神から来たるべき洪水を知らされた。7日7夜の大洪水ののち,日神ウトゥが現れて大地を乾かし,ジウスドラは日神に牛や羊を供犠して感謝した。のちジウスドラは神のような長寿を授けられ,日の出の地ディルムンに移された。このシュメール神話がバビロニア神話をへて旧約聖書の洪水神話になり,主人公もジウスドラからノアになった。ノアの洪水神話はのちにキリスト教を通じて世界各地,たとえばオセアニア,北アメリカに伝播し,ときには土着の洪水神話にも影響を与えた。この種の影響や伝播は,ノアという人名,不敬な人間を罰するための洪水,1対ずつの家畜を箱舟に入れること,鳩を放って減水をしらべること,などの特徴によって容易に見分けられるものが多い。世界の洪水神話のなかでは,この西アジア系の洪水神話に著しい,神罰としての洪水というモティーフは,決して一般的ではない。東南アジアからオセアニアにかけての地域も独自の洪水神話の分布領域をなしている。この地域には,宇宙の二大原理あるいはその代表者が相争う過程において洪水が生じたという形式が点々と分布している。ベトナム南部のバナル族の神話によれば,近くのジャライ族の火の王と水の王という二大祭司王が争い,水の王は相手に復讐するため洪水をおこし,すべての人間は死んでしまったが,自分たちは太鼓に入って長期間水上を漂って助かったという。日本神話において山幸彦が潮みつ珠で高潮を生じさせて海幸彦を苦しめた話もこの系列に入る。中国南部から東南アジアにかけては,兄妹2人だけが洪水から生きのび,結婚して人類あるいは特定民族の先祖となったという形式が広く分布している。バナル族の別の神話によれば,鳶と蟹が争い,蟹は鳶に達するため,洪水をおこした。ある兄妹だけがカボチャに入って生きのびた。亀と竹が2人に結婚するようにすすめ,1人の精霊が女に毎年1粒ずつのむように8粒のインゲン豆を与えた。女がこれをまとめてのみ込むと,彼女は子どもを一度に8人生み,これから人類が発生した。
兄妹始祖型洪水神話は,東アジアでは,日本のイザナキ,イザナミの国生み神話にも痕跡があるが,朝鮮では口承の民話として現代でも次のようなものが伝えられている。大洪水で世界は全滅し,兄妹2人だけが山の峰に漂着したが,結婚相手がほかにいないので,2人は神意を占うことにした。山の峰からひき臼をころがしたところ,妹の臼が兄の臼にくっついた。そこで2人はこれを神意と考え,結婚した。
洪水神話に時々みられるモティーフに,来たるべき洪水の予告がある。《シャタパタ・ブラーフマナ》や《マハーバーラタ》などのインドの古文献に出ている洪水神話もその例で,マヌ王の助けた魚が,来たるべき洪水を予告し,その指示により船をつくって王は助かった。洪水を逃れる方法としては,舟や容器に入る以外に,高い山や木にのぼる例も多い。ニューギニアのバルマン族の場合,大魚を食べずに高いヤシの木にのぼった男とその家族は助かり,大魚を食べた者たちはみな溺れ死んだ。カリフォルニアのルイセイニョ族では,人類のほとんどを溺死させた洪水のとき,小山に避難した少数の者だけが助かった。
洪水神話と関連した儀礼としては,たとえば北アメリカ大平原のマンダン族は洪水のおさまった記念に毎年祭りをもよおしていた。原古の大災厄神話としては洪水神話が代表的なものだが,大火神話もある。ザバイカルのツングース族によれば,7年間の大火災を生きのびた若者と娘の2人は鷲に乗って天にのぼり,それから1ヵ所だけ陸地が現れた場所に下ったという。
→創世神話
執筆者:大林 太良
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
原古に大洪水が起こって人類は少数の者を除いて絶滅し、水が引いたのちに新たな時代が始まって、生存者の子孫が現存人類になったという神話。この神話は世界的に広く分布しているが、アフリカのようにキリスト教やイスラム教の入る前は土着の洪水神話がなかったと思われる地域もあり、けっして人類普遍的なものではない。その洪水発生の理由については、神がそれまでの人類の罪悪(たとえば神を敬わないなど)を怒り、罰として洪水を起こしたという形式と、このような倫理的動機を含まないものとに大別できる。前者が古代バビロニア神話から、ユダヤ、キリスト教の神話において顕著であるのに対し、東南アジアやオセアニアの洪水神話の大部分は後者に入る。本格的な洪水神話ではないが、その変種あるいは類似物とみなすことのできる神話としては、洪水発生の部分を欠き、原初、海洋中の島に兄妹が天降(あまくだ)る神話(日本、琉球(りゅうきゅう)、東南アジア島嶼(とうしょ)部)や、水ではなく火により人類が滅ぼされるという形式(アッサムのラケール人など)がある。なお中国の古代神話にある、禹(う)が氾濫(はんらん)した水を流して洪水を治めたという話は、普通、洪水神話とよんでいるが、むしろこれは治水神話の部類に入る。
[大林太良]
世界の洪水神話は、地域によってさまざまな形式をとっている。『旧約聖書』によれば、神は堕落した人間を罰するために洪水を送ることを決めたが、正しい人間のノアだけは神から生き残るよう選ばれた。ノアは、箱舟の中に妻子や各種の雌雄一対(つい)の動物を入れて乗り込み、鳥を飛ばして水が引いたかを調べ、山の上に漂着した。そして難を逃れたお礼に山上で燔祭(はんさい)を捧(ささ)げた。メソポタミアの神話にまでさかのぼるこの形式は、他方キリスト教やイスラム教を通じ、広く世界に伝えられた。
インドのサンスクリット聖典『シャタパタ・ブラーフマナ』によれば、昔、マヌという男が1匹の魚を救ったところ、この魚はマヌに、近く洪水が生じるから舟をつくって入るようにと勧めた。これに従って助かったマヌが、水中にバターなどの乳製品を入れるとこれが女となったので、彼女と結婚して現在の人類の祖となった。この系統の洪水神話は後世のインド人やインドの少数民族に若干みられる。また西シベリアのハンティ(オスチャーク)の神話によると、あるとき至高神が近く洪水を送ることを息子に知らせた。それで息子は自分と家族を救うための舟をつくるのに忙しく、いつも不在であった。そこで悪魔がその妻をそそのかし、夫に酒を飲ませて不在の秘密を聞き出させ、その舟を壊して至高神の指令のじゃまをした。しかし、息子は3日で新しい舟をつくって助かり、これを見ていた何人かの人も筏(いかだ)をつくって助かり、さまざまな民族の先祖になったという。
中国南部から東南アジアにかけての特徴は、洪水を生き延びた兄妹が結婚し、人類の祖になるという形式である。ヤオ人の神話では、兄と妹がひょうたんに乗って洪水から助かるが、生き残ったのが彼ら2人だけなので、神意を占ってから結婚したという。北米先住民の洪水神話には、嫉妬(しっと)深い求婚者の涙から、あるいは怪物の腹中から洪水が発生したとか、どんどん伸びて天に入る木を登り助かる形式などがある。このほか、東南アジア、ポリネシア、南米などには、2人の神が争うことによって洪水が起こるという形式もある。このようなさまざまな世界の洪水神話を通じてみられる基本的構造は、混沌(こんとん)から秩序への移行、洪水以前とは異なる新しい時代の開始である。
[大林太良]
『J・G・フレーザー著、江河徹他訳『旧約聖書のフォークロア』(1976・太陽社)』▽『大林太良著『世界の神話』(1976・NHKブックス)』
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… ところが,ディルムンという地名はシュメール語の神話的テキストにも現れており,古くに神話的地名となったことをうかがわせる。これはジウスドラZiusdra(〈生命を見た者〉)を主人公とする〈大洪水神話〉を記した断片で,大洪水によって人類が滅ぼされたとき,ジウスドラのみが助けられ,神々によってディルムンの地に住まわせられたことが述べられている。この〈大洪水神話〉は,アッカド語で書かれた《ギルガメシュ叙事詩》第11の書板のエピソードおよび《アトラ・ハシース物語》の大洪水物語の原型であり,これらがのちに《創世記》のいわゆる〈ノアの大洪水〉の物語へと発展したことはよく知られている。…
※「洪水神話」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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