日本歴史地名大系 「引間」の解説
引間
ひくま
建武三年(一三三六)九月日の仁木義長軍忠状写(古文書集)によれば、仁木義長の亡父義高が新田左馬助らと同月一三日に当地や天竜川端で合戦し、討死している。
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建武三年(一三三六)九月日の仁木義長軍忠状写(古文書集)によれば、仁木義長の亡父義高が新田左馬助らと同月一三日に当地や天竜川端で合戦し、討死している。
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遠江国(静岡県)の古代,中世の宿駅。引馬,曳馬,疋馬などとも書く。その名は古代からみられると考えられるが,いまだ確証をえない。《吾妻鏡》の建長4年(1252)3月25日の条に〈昼引間,夜池田〉と見え,また《十六夜(いざよい)日記》にも引間宿に泊まるとあり,中世の紀行文などにはしばしば現れる。東海道交通の要地であるばかりでなく,浜松荘の荘園市場にはじまり,遠江の商業・流通の中心地として,とくに室町期には市も発達した。1456年(康正2)には徳政一揆が起こり,蒲御厨(かばのみくりや)の農民たちが引間市の土倉を襲撃した。また室町期に遠江守護斯波氏の被官大河内氏が引間城を築いたといわれているが,やがて1517年(永正14)に今川氏親が引間城を攻め,斯波氏の勢力を一掃して遠江を平定し,領国経営の拠点とした。70年(元亀1)に徳川家康が居城を岡崎から引間に移し,これを浜松と改称して以後,引間の名称は見られなくなった。
執筆者:本多 隆成
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…15世紀中ごろ,守護斯波氏の被官応嶋氏や三河の吉良氏被官大河内氏などが代官として入部し,蒲御厨の諸公文百姓等をひきよせて勢力を争った。蒲御厨は浜松荘引間(ひくま)市に近く,1456年(康正2)には蒲御厨百姓等が徳政一揆をおこして,引間市の土倉を襲撃したこともあった。戦国時代には今川氏の制圧下に入った。…
※「引間」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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