清水郷
きよみずごう
囎唹郡の西部に位置した鹿児島藩の外城で、南西は国分郷、北は曾於郡郷、南東は財部郷・福山郷であった。「薩隅日地理纂考」によれば周回九里一九町一六間、弟子丸村・姫城村・郡田村・山之路村・川原村の五ヵ村からなっていた。鹿児島藩直轄領。地頭仮屋・麓は弟子丸村に置かれ、初代地頭は山田越前守有信、慶長(一五九六―一六一五)頃に地頭の下にあった年寄である所頼之人は阿多孫右衛門・村田伊左衛門が勤めていた(国分郷土誌)。寛永一三年(一六三六)の堺目人数・武具注文(旧記雑録)によれば清水衆は人数一千八七六、うち男子一千八二、鉄砲六九挺・弓一九張・鑓三二本を備えていた。
清水郷
しみずごう
「和名抄」高山寺本に「清水」と記し、「之美豆」と訓じ、流布本には「之美都」と訓じているので、「しみづ」と称していたものであろう。
「信濃地名考」は「清水郷は今の三水なるべし、之美都は澄水のすみを約したる也」と説き、「日本地理志料」はこの説に立ち、現長野市三水から上流犀川右岸の沿岸一帯の地、更府村(現長野市)・牧郷村(現大岡村、上水内郡信州新町)をその地域に比定している。「大日本地名辞書」もほぼ同様の解釈である。この場合、清水郷をこの地域に比定するには、筑摩郡と結ぶ犀川峡谷を通じての文化を究明する要があろう。
清水郷
しみずごう
「和名抄」諸本ともに訓を欠く。「日本地理志料」では「之美都」と読み、清水目・柳目・真坂・川口・島体(現一迫町)、花山(現花山村)などにわたる地とする。
清水郷
しみずごう
「和名抄」高山寺本・東急本ともに「清水」と記し訓を欠く。他史料に郷名はみえない。「続風土記」は「清水の名今考ふる所なし」としながら「今の川上荘の内ならん」と、現日高川の中流域にあたる川辺町東部・中津村・美山村西部に比定。「大日本地名辞書」は不詳としつつ「南切目の辺郷名を欠けば或はそこなるべしと云も徴証なし」と記す。
清水郷
しみずごう
「和名抄」諸本とも訓を欠く。「日本地理志料」では「志美豆」と読み、高清水(現栗原郡高清水町)などの地とし、同地は栗原郡であるが隣接するためという。
清水郷
しみずごう
「和名抄」に「清水」と記され、訓を欠く。「新編常陸国誌」に「按ズルニ、今ノ新治郡上稲吉村ノ属邑ニ、清水村アリ、是ソノ地ナリ」とあり、現新治郡千代田村上稲吉に比定する。
清水郷
しみずごう
「和名抄」は諸本とも訓を欠く。清水庄(長治三年三月八日「日吉社交名注進」山口光円氏本打聞集裏文書)は当郷の庄園化したものであろうか。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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