デジタル大辞泉
「済南事件」の意味・読み・例文・類語
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さいなん‐じけん【済南事件】
- 一九二八年(昭和三)五月、北伐をめざす蒋介石の国民革命軍が中国山東省済南に入城した際、すでに同地に出兵していた日本軍が在留邦人の保護を名目にこれに挑戦した事件。第二次の山東出兵の際におこり、第三次の山東出兵を招いた。せいなんじけん。
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済南事件【さいなんじけん】
1928年5月,中国の済南で北伐中の国民革命軍と中国出兵の日本軍との間に起こった武力衝突事件。北伐に対し在留邦人保護の名目で出兵した日本軍が,済南に入城した革命軍と衝突。日本軍の集中砲火により済南城内では一般市民を主に5000人にのぼる死傷者が出た。中国世論は居留民保護の範囲を逸脱した行為と一斉に批難,日中両国は互いに相手側の謝罪・賠賞を要求して困難な交渉となったが,1929年3月双方が譲歩して解決に関する文書に調印,同年5月日本軍は撤兵。→山東出兵
→関連項目田中義一内閣|廖承志
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済南事件
さいなんじけん
山東(さんとう)出兵中の日中両軍の局地戦。1928年(昭和3)国民革命軍の北伐再開にあたり、田中義一(ぎいち)内閣は第二次山東出兵を断行、5月3日中国山東省の済南で日中両軍間に市街戦が起こった。8日には全面衝突に発展、日本軍は済南城を総攻撃、占領した。一連の戦闘で在留邦人、中国外交官などにも犠牲者を出した。国民革命軍の主力は済南を迂回(うかい)北上し、戦闘は11日に終息したが、中国民衆の反日感情はこの事件で増大した。
[岡部牧夫]
『臼井勝美著『日中外交史』(塙新書)』
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済南事件
さいなんじけん
1928年(昭和3)中国山東省で北伐途上の国民革命軍と日本軍が軍事衝突して日本軍が済南を占領した事件。北伐の進展にともない,28年4月,田中義一内閣は居留民保護のため済南と膠済(こうさい)線沿線に派兵した(第2次山東出兵)。国民革命軍が日本軍の撤収を要求したこともあり,5月3日,小衝突をきっかけに両軍の交戦が始まった。日本側は,関係者の処罰や中国軍の武装解除要求が入れられないとわかると,内地から1個師団を増派し,8日総攻撃を開始,11日までに済南中心部を占領(第3次山東出兵),中国側の死傷者は5000人に達した。翌年3月28日の外交交渉による解決で5月に日本軍は全面撤退した。
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済南事件
さいなんじけん
満州事変の導火線となった事件。 1928年に蒋介石の国民革命軍が北上して京津地方の張作霖軍と衝突したとき,日本軍が居留民保護を口実に青島,済南に警備出兵し,5月3日に革命軍と衝突した。市街戦ののち,同夜停戦協定が成立したが,日本政府 (田中義一内閣) は中国の多年にわたる排日感情が原因であるとして,増派を決定,中国軍の済南からの撤退および軍団長の処刑などを要求したが,中国側の回答を不満として8日総攻撃を行い,11日に済南を完全占領した。第2次山東出兵ともいう。 (→山東出兵 )
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済南事件
せいなんじけん
1928年5月,日本軍の山東出兵をめぐり山東省済南で起きた北伐軍と日本軍の衝突事件
中国国民党の北伐完成によって革命が華北に及ぶのを恐れた日本の田中義一内閣が,居留民の保護を名目に1927・28の両年出兵し,済南を占領,北伐に干渉した。そのため,北伐軍は済南を迂回して北上した。事件は1929年3月に解決し,5月日本軍は山東から撤退したが,この事件を契機に,中国の抗日運動は激化した。
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済南事件
さいなんじけん
1928(昭和3)年,中国山東省済南における日中両軍の武力衝突
第2次山東出兵の日本軍は,済南に入城し北伐を再開した国民革命軍の対張作霖軍事行動を妨害し,警戒区域境界線を通過した国民革命軍1兵士を射殺,国民革命軍に総攻撃を加えた。日本政府は第3次山東出兵を声明,国民政府が国際連盟に提訴したため,'29年協定が成立し,日本は撤兵した。
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世界大百科事典(旧版)内の済南事件の言及
【山東出兵】より
…日本軍(福田彦助第6師団長)は7日革命軍責任者の処刑,山東鉄道沿線からの撤退などを含む厳しい要求を12時間の期限付で提出し,8日戦闘を開始,11日済南城を占領した。日本軍の集中砲火により城内では一般市民を主とし5000人にのぼる死傷者を出すに至った(済南事件)。済南城攻撃にみられる日本軍の行動は,居留民保護の範囲を逸脱した革命軍北伐への干渉として,中国の世論はいっせいに日本を批判した。…
※「済南事件」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」