田中義一(読み)タナカギイチ

デジタル大辞泉 「田中義一」の意味・読み・例文・類語

たなか‐ぎいち【田中義一】

[1864~1929]軍人・政治家。陸軍大将。山口の生まれ。内閣の陸相として軍備拡張に尽力し、シベリア出兵を遂行。立憲政友会総裁を経て、昭和2年(1927)組閣。治安維持法改悪、共産党弾圧を行い、対中国積極外交を推進したが、張作霖ちょうさくりん爆殺事件の責任を負って総辞職

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精選版 日本国語大辞典 「田中義一」の意味・読み・例文・類語

たなか‐ぎいち【田中義一】

  1. 軍人、政治家。長州藩出身。陸士・陸大卒。日露戦争に満州軍参謀。軍務局長、第二旅団長、参謀次長、原内閣・第二次山本内閣の陸相を歴任。ついで政友会総裁となり、昭和二年(一九二七若槻内閣の後をうけて組閣。不況に対し支払猶予緊急勅令モラトリアム)を出して金融恐慌の鎮静に一応成功を収めた。張作霖爆死事件の処置をめぐり、同四年総辞職。元治元~昭和四年(一八六四‐一九二九

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「田中義一」の意味・わかりやすい解説

田中義一
たなかぎいち
(1864―1929)

陸軍軍人、政治家。元治(げんじ)1年6月22日、長州藩下級藩士の家に生まれる。1883年(明治16)陸軍教導団に入り、陸軍士官学校陸軍大学校を卒業、日清(にっしん)戦争に出征した。戦後は参謀本部に入り、ロシアに派遣され、日露戦争に際しては開戦を積極的に促進、満州軍参謀となり、張作霖(ちょうさくりん)との間に「俺(おれ)が弟」と称するような深い関係をつくった。1906年(明治39)山県有朋(やまがたありとも)の命で「帝国国防方針」の原案を作成、以後軍事課長、軍務局長を歴任し、帝国在郷軍人会の組織、2個師団の増設などにあたり、軍政の中枢にあって手腕を発揮した。1915年(大正4)中将、参謀次長、1918年原敬(はらたかし)内閣の陸相に就任、シベリア出兵を遂行し、1920年男爵、1921年大将となったが、同年陸相を辞した。1923年第二次山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣でふたたび陸相となり、辞職後も山県亡きあとの陸軍長州閥の総帥として軍政界に重きをなし、1925年4月退役と同時に高橋是清(たかはしこれきよ)の後を継いで立憲政友会総裁に就任したが、陸軍機密費横領のスキャンダルで信望を損なった。1927年(昭和2)4月政友会内閣をつくり、外相を兼ね、山東(さんとう)出兵、東方会議、済南事件(さいなんじけん)などの対中国「積極」政策を推進、内政でも第1回普選への干渉、三・一五事件、緊急勅令による治安維持法改正、四・一六事件などの強圧を重ね、「暗黒政治」の悪評を被った。張作霖爆殺事件の責任を追及され、天皇に食言をとがめられ、1929年7月総辞職、9月28日急逝した。

[江口圭一]

『高倉徹一編『田中義一伝記』(1981・原書房)』『田崎末松著『評伝田中義一』(1981・平和戦略綜合研究所)』『纐纈厚著『田中義一――総力戦国家の先導者』(2009・芙蓉書房出版)』


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改訂新版 世界大百科事典 「田中義一」の意味・わかりやすい解説

田中義一 (たなかぎいち)
生没年:1864-1929(元治1-昭和4)

陸軍軍人,政治家。長州藩藩士出身。1886年陸軍士官学校(旧8期),92年陸軍大学校を卒業。日清戦争に従軍,日露戦争では大本営陸軍参謀ついで満州軍参謀として転戦,その間に張作霖を助命し,その後の満州進出に役立てる密接な関係を結んだ。1906年山県有朋の命により帝国国防方針の原案を作成,09年陸軍省軍事課長となり,軍政家としての手腕を発揮し,とくに帝国在郷軍人会の創立に尽力した。10年少将,11年軍務局長にすすみ,二個師団増設問題を推進したが,これは第2次西園寺公望内閣の倒壊,大正政変を導くこととなった。第2旅団長,欧米巡遊ののち,15年中将,参謀次長に就任,16年第2次満蒙独立運動を推進したが失敗した。国内では青年団の再編成に力をそそぎ,18年原敬内閣の陸相として,シベリア出兵を遂行した。20年男爵,21年大将,22年軍事参議官となり,山県の死後は長州閥の総帥の地位を占め,第2次山本権兵衛内閣の陸相をへて,25年立憲政友会総裁に迎えられた。しかし翌年の議会で陸軍機密費300万円横領のスキャンダルを追及され,信望をそこなった。27年,北伐にたいする幣原外交の〈軟弱〉を非難し,4月金融恐慌のさなかに政友会内閣を組織,首相,外相を兼ね,〈積極外交〉の実行を使命とした。5月第1次山東出兵により北伐に武力干渉し,ついで東方会議を開いて満蒙分離政策を練った。28年第2次山東出兵により5月済南事件の発生をきたし,はげしい排日運動をひきおこした。また張作霖を利用する満蒙分離政策は張爆殺により破綻(はたん)した。この間,内政面では第1回普通選挙への干渉,三・一五事件,治安維持法の緊急勅令による死刑法化などで,〈暗黒政治〉の非難を浴び,のほうずな閣僚人事は党内外の批判を招いた。満州某重大事件,不戦条約問題などを追及され,張爆殺犯人の処罰について天皇に食言を叱責されて,29年7月総辞職し,9月急逝した。
田中メモランダム
執筆者:

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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「田中義一」の解説

田中 義一
タナカ ギイチ


肩書
第26代首相,陸相,政友会総裁,貴院議員(勅選)

別名
幼名=音熊 号=素水

生年月日
元治1年6月22日(1864年)

出生地
長門国萩(山口県萩市)

学歴
陸士(旧第8期)〔明治19年〕卒 陸大〔明治25年〕卒

経歴
明治9年萩の乱に加わる。長崎で漢学を学んだ後、15年上京、陸士、陸大を卒業。日清戦争従軍後、29年参謀本部第2部に勤務、ロシア留学、日露戦争時満州軍参謀を経て、43年少将・歩兵第2旅団長、44年陸軍省軍務局長となり2個師団増設を推進。大正4年中将・参謀次長となり、7年には原内閣の陸相としてシベリア出兵を指揮。9年男爵、10年大将に進み軍事参議官となる。12年第2次山本内閣の陸相ののち、14年立憲政友会総裁に迎えられ、翌年勅選貴院議員(昭和4年まで)。昭和2年政友会内閣を組織し首相となり、外相、拓相を兼任、普通選挙による最初の総選挙を実施した。治安維持法の改悪、3.15事件、3次にわたる山東出兵など“積極外交”を掲げて強硬な軍事路線を敷いたが、張作霖爆殺事件(満州某重大事件)や閣僚人事が“暗黒政治”の非難を浴びて4年7月総辞職し、9月急死した。

没年月日
昭和4年9月29日

家族
父=田中 信佑(長州藩士) 息子=田中 龍夫(衆院議員) 田中 義昭(大洋漁業専務)

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

朝日日本歴史人物事典 「田中義一」の解説

田中義一

没年:昭和4.9.29(1929)
生年:元治1.6.22(1864.7.25)
明治大正昭和期に活躍した陸軍軍人,政治家。長州閥最後のリーダー。長州(萩)藩士田中信祐と美与の3男。萩城下に生まれ幼名を音松,妻は陸軍中将大築尚志の娘。廃藩後の困窮のため村役場の給仕を勤め,前原一誠の乱に徴発され加盟,許されてのち代用教員から陸軍教導団,陸軍士官学校,陸軍大学校に進む。日清戦争(1894~95)では第1師団副官として出征,戦後参謀本部2部員のとき,参謀総長川上操六に認められ,31年から4年におよぶロシア留学を命じられた。強烈な個性的言動が目立つのはこのころからで,政治・経済・軍事の三位一体で行われる近代戦争の特質を見抜き,三者の一体化を実現しようとした先駆者でもあり,それだけに周囲に誤解されやすかった。満州軍参謀として出征した日露戦争(1904~05)では桜井忠温に戦争作品の執筆を勧めた逸話がある。文学が戦争に大きな影響を与える事実を理解した稀有な軍人でもあった。明治42(1909)年陸軍省軍事課長となり,「軍隊内務書」「歩兵操典」などの改正を企て,一方で在郷軍人会の組織化に成功,44年軍務局長になると朝鮮2個師団増設問題を出して西園寺内閣崩壊の一因を作った。第1次大戦中の大正6(1917)年大日本青年団を組織,その理事長につく。7年原敬内閣で陸軍大臣となり国防の近代化に着手したが,シベリア出兵問題で辞職した。14年予備役編入とともに立憲政友会総裁となり,昭和2(1927)年内閣を組織。だが在任中,共産党大弾圧,治安維持法改正,張作霖爆殺事件があり,軍人時代に示した先取的姿勢を見いだすことはできない。4年,張作霖爆殺事件の責任をとって総辞職,その直後に急逝。<参考文献>高倉徹一『田中義一伝記』上下

(田中宏巳)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

20世紀日本人名事典 「田中義一」の解説

田中 義一
タナカ ギイチ

明治〜昭和期の陸軍大将,政治家,男爵 首相;陸相;政友会総裁;貴院議員(勅選)。



生年
元治1年6月22日(1864年)

没年
昭和4(1929)年9月29日

出生地
長門国萩(山口県萩市)

別名
幼名=音熊,号=素水

学歴〔年〕
陸士(旧第8期)〔明治19年〕卒,陸大〔明治25年〕卒

経歴
明治9年萩の乱に加わる。長崎で漢学を学んだ後、15年上京、陸士、陸大を卒業。日清戦争従軍後、29年参謀本部第2部に勤務、ロシア留学、日露戦争時満州軍参謀を経て、43年少将・歩兵第2旅団長、44年陸軍省軍務局長となり2個師団増設を推進。大正4年中将・参謀次長となり、7年には原内閣の陸相としてシベリア出兵を指揮。9年男爵、10年大将に進み軍事参議官となる。12年第2次山本内閣の陸相ののち、14年立憲政友会総裁に迎えられ、翌年勅選貴院議員(昭和4年まで)。昭和2年政友会内閣を組織し首相となり、外相、拓相を兼任、普通選挙による最初の総選挙を実施した。治安維持法の改悪、3.15事件、3次にわたる山東出兵など“積極外交”を掲げて強硬な軍事路線を敷いたが、張作霖爆殺事件(満州某重大事件)や閣僚人事が“暗黒政治”の非難を浴びて4年7月総辞職し、9月急死した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「田中義一」の意味・わかりやすい解説

田中義一
たなかぎいち

[生]元治1(1864).6.22. 長州,萩
[没]1929.9.29. 東京
陸軍軍人,政治家。長州藩藩士の子に生れ,1886年陸軍士官学校,92年陸軍大学校卒業。日清戦争に従軍。 1904年日露戦争では大本営参謀,満州軍参謀。その際に張作霖を助命し,彼と密接な関係を結んだ。 06年帝国国防方針の原案を作成。 10年少将,11年軍務局長。2個師団増設問題で,大正政変を導く。 15年中将,参謀次長となり,16年満蒙独立運動を推進したが失敗。 18年には陸相としてシベリア出兵を遂行。 20年男爵の爵位を受け,21年大将,22年軍事参議官を経て 27年首相兼外相となる。対中国積極政策 (いわゆる田中外交 ) をとったが,28年の第2次山東出兵により激しい排日運動が起き,また張作霖を利用する満蒙分離政策は,張の爆殺で破綻。この満州某重大事件や不戦条約問題などを追求され,29年総辞職,同年急逝した。 (→田中メモランダム )  

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百科事典マイペディア 「田中義一」の意味・わかりやすい解説

田中義一【たなかぎいち】

陸軍大将,政治家。長州藩士出身。日清・日露戦争に従軍。山県有朋に認められて軍政家としての手腕を発揮,帝国在郷軍人会の創立などに尽力。1918年原敬内閣の陸相としてシベリア出兵を強行,1925年立憲政友会総裁となる。1927年北伐に対する幣原(しではら)外交を排難し,同年組閣,金融恐慌の処理,社会主義運動の弾圧と同時に強硬外交を推進。張作霖爆殺事件の責任を負って1929年辞職。→田中義一内閣

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「田中義一」の解説

田中義一
たなかぎいち

1864.6.22~1929.9.29

明治~昭和前期の政治家・陸軍軍人。長門国生れ。萩藩士の子。代用教員などをへて陸軍士官学校・陸軍大学校を卒業。日清・日露戦争に出征。山県有朋(やまがたありとも)・寺内正毅(まさたけ)らの庇護のもとで累進,軍務局長・参謀次長などをへて1918年(大正7)原内閣の陸相。21年陸軍大将。山県らの死後,陸軍長州閥の後継者となり,第2次山本内閣でも陸相。25年立憲政友会総裁に迎えられたが,のちに陸相在任中の機密費流用による総裁就任工作が取沙汰された。27年(昭和2)内閣を組織し外相を兼務,森恪(つとむ)政務次官らと山東出兵・東方会議開催など対中国積極政策を展開した。枢密院などの反対を押し切って不戦条約を調印・批准したが,張作霖(ちょうさくりん)爆死事件の処理をめぐり昭和天皇の叱責をうけて辞任。男爵。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「田中義一」の解説

田中義一 たなか-ぎいち

1864-1929 明治-昭和時代前期の軍人,政治家。
元治(げんじ)元年6月22日生まれ。大正10年陸軍大将。14年政友会総裁,昭和2年首相兼外相となり,山東出兵を断行,東方会議で対支政策綱領を決定するなど,中国に対する強硬外交を展開。また治安維持法を改正,社会主義運動を弾圧した。張作霖(ちょう-さくりん)爆殺事件の責任をとって4年総辞職。昭和4年9月29日死去。66歳。長門(ながと)(山口県)出身。陸軍大学校卒。

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旺文社日本史事典 三訂版 「田中義一」の解説

田中義一
たなかぎいち

1863〜1929
明治〜昭和初期の軍人・政治家
陸軍大将。長門(山口県)の生まれ。日清・日露両戦争に従軍。のち陸軍省に入り,軍務局長・参謀次長を経て,原敬・第2次山本権兵衛内閣の陸相となる。1925年立憲政友会総裁に就任し,'27年若槻礼次郎内閣のあとをうけて組閣。治安維持法改正・共産党弾圧などの反動政策を行い,対中国積極外交をおしすすめた。'29年7月,張作霖爆殺事件により総辞職し,2か月後急死した。

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367日誕生日大事典 「田中義一」の解説

田中 義一 (たなか ぎいち)

生年月日:1864年6月22日
明治時代-昭和時代の陸軍軍人;政治家。貴族院議員;首相
1929年没

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世界大百科事典(旧版)内の田中義一の言及

【疑獄】より

…〈疑獄〉という言葉は,元来入獄させるか否かが明確でなく,犯罪事実があいまいな事件を意味する。この種の事件は多かれ少なかれ政・官・財界に波及するため,現在では政治問題化した利権関係事件の総称となっている。政治問題として社会的に大きく取りあげられ,ジャーナリズムによる声高な批判を代償として,刑事事件としては訴追されることがきわめて少ないのが疑獄事件の特徴といってよい。 明治初期においては,山県有朋が関与したといわれる山城屋事件など,藩閥政府と政商とが特権の供与をめぐって直接結びついたケースがあり,多くは表沙汰にならなかった。…

【山東出兵】より

…田中義一内閣が1927,28年の2次にわたって実施した中国山東省への出兵。(1)第1次 1927年5月,武漢・南京両国民政府軍が津浦(天津~浦口),京漢(北京~漢口)両鉄道に沿って北伐を開始すると,田中内閣は済南居留日本人(約2000人)保護のため,まず青島(チンタオ)へ6月1日日本軍を上陸させた。…

【昭和天皇】より

…昭和天皇の政治的立場は,独特の立憲君主制観と外交面における英米協調主義・対ソ連警戒という二つの特徴をもっており,この立場は,その強い信念に裏打ちされて,戦前から戦後にかけての天皇の地位の大きな変化にもかかわらず終始一貫変わらなかった。 昭和天皇のもっていた立憲君主像とは,いったん輔弼(ほひつ)機関が決めたことには介入しないというものであり,この立場は皇太子時代の教育やヨーロッパ外遊から培われたが,とりわけ29年,前年に起こった張作霖爆殺事件の首謀者に関する首相田中義一の説明が陸軍をかばって矛盾していたことを天皇が叱責したために,田中内閣が総辞職を余儀なくされた事件以来,いっそう強いものとなった。しかしこの不介入の態度はけっして絶対的なものでなく,輔弼機関そのものが破壊されたり輔弼機関が決定をなしえない場合には天皇がみずから判断を下すとされた。…

【田中メモランダム】より

…田中義一首相が対満蒙政策について天皇に上奏したものと喧伝された文書。1929年12月中国南京で発行されていた《時事月報》に,東京で入手し中国文に訳したという〈田中義一上日皇之奏章〉と題する文書が掲載された。…

※「田中義一」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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