陸軍軍人、政治家。元治(げんじ)1年6月22日、長州藩下級藩士の家に生まれる。1883年(明治16)陸軍教導団に入り、陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業、日清(にっしん)戦争に出征した。戦後は参謀本部に入り、ロシアに派遣され、日露戦争に際しては開戦を積極的に促進、満州軍参謀となり、張作霖(ちょうさくりん)との間に「俺(おれ)が弟」と称するような深い関係をつくった。1906年(明治39)山県有朋(やまがたありとも)の命で「帝国国防方針」の原案を作成、以後軍事課長、軍務局長を歴任し、帝国在郷軍人会の組織、2個師団の増設などにあたり、軍政の中枢にあって手腕を発揮した。1915年(大正4)中将、参謀次長、1918年原敬(はらたかし)内閣の陸相に就任、シベリア出兵を遂行し、1920年男爵、1921年大将となったが、同年陸相を辞した。1923年第二次山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣でふたたび陸相となり、辞職後も山県亡きあとの陸軍長州閥の総帥として軍政界に重きをなし、1925年4月退役と同時に高橋是清(たかはしこれきよ)の後を継いで立憲政友会総裁に就任したが、陸軍機密費横領のスキャンダルで信望を損なった。1927年(昭和2)4月政友会内閣をつくり、外相を兼ね、山東(さんとう)出兵、東方会議、済南事件(さいなんじけん)などの対中国「積極」政策を推進、内政でも第1回普選への干渉、三・一五事件、緊急勅令による治安維持法改正、四・一六事件などの強圧を重ね、「暗黒政治」の悪評を被った。張作霖爆殺事件の責任を追及され、天皇に食言をとがめられ、1929年7月総辞職、9月28日急逝した。
[江口圭一]
『高倉徹一編『田中義一伝記』(1981・原書房)』▽『田崎末松著『評伝田中義一』(1981・平和戦略綜合研究所)』▽『纐纈厚著『田中義一――総力戦国家の先導者』(2009・芙蓉書房出版)』
陸軍軍人,政治家。長州藩藩士出身。1886年陸軍士官学校(旧8期),92年陸軍大学校を卒業。日清戦争に従軍,日露戦争では大本営陸軍参謀ついで満州軍参謀として転戦,その間に張作霖を助命し,その後の満州進出に役立てる密接な関係を結んだ。1906年山県有朋の命により帝国国防方針の原案を作成,09年陸軍省軍事課長となり,軍政家としての手腕を発揮し,とくに帝国在郷軍人会の創立に尽力した。10年少将,11年軍務局長にすすみ,二個師団増設問題を推進したが,これは第2次西園寺公望内閣の倒壊,大正政変を導くこととなった。第2旅団長,欧米巡遊ののち,15年中将,参謀次長に就任,16年第2次満蒙独立運動を推進したが失敗した。国内では青年団の再編成に力をそそぎ,18年原敬内閣の陸相として,シベリア出兵を遂行した。20年男爵,21年大将,22年軍事参議官となり,山県の死後は長州閥の総帥の地位を占め,第2次山本権兵衛内閣の陸相をへて,25年立憲政友会総裁に迎えられた。しかし翌年の議会で陸軍機密費300万円横領のスキャンダルを追及され,信望をそこなった。27年,北伐にたいする幣原外交の〈軟弱〉を非難し,4月金融恐慌のさなかに政友会内閣を組織,首相,外相を兼ね,〈積極外交〉の実行を使命とした。5月第1次山東出兵により北伐に武力干渉し,ついで東方会議を開いて満蒙分離政策を練った。28年第2次山東出兵により5月済南事件の発生をきたし,はげしい排日運動をひきおこした。また張作霖を利用する満蒙分離政策は張爆殺により破綻(はたん)した。この間,内政面では第1回普通選挙への干渉,三・一五事件,治安維持法の緊急勅令による死刑法化などで,〈暗黒政治〉の非難を浴び,のほうずな閣僚人事は党内外の批判を招いた。満州某重大事件,不戦条約問題などを追及され,張爆殺犯人の処罰について天皇に食言を叱責されて,29年7月総辞職し,9月急逝した。
→田中メモランダム
執筆者:江口 圭一
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(田中宏巳)
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明治〜昭和期の陸軍大将,政治家,男爵 首相;陸相;政友会総裁;貴院議員(勅選)。
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1864.6.22~1929.9.29
明治~昭和前期の政治家・陸軍軍人。長門国生れ。萩藩士の子。代用教員などをへて陸軍士官学校・陸軍大学校を卒業。日清・日露戦争に出征。山県有朋(やまがたありとも)・寺内正毅(まさたけ)らの庇護のもとで累進,軍務局長・参謀次長などをへて1918年(大正7)原内閣の陸相。21年陸軍大将。山県らの死後,陸軍長州閥の後継者となり,第2次山本内閣でも陸相。25年立憲政友会総裁に迎えられたが,のちに陸相在任中の機密費流用による総裁就任工作が取沙汰された。27年(昭和2)内閣を組織し外相を兼務,森恪(つとむ)政務次官らと山東出兵・東方会議開催など対中国積極政策を展開した。枢密院などの反対を押し切って不戦条約を調印・批准したが,張作霖(ちょうさくりん)爆死事件の処理をめぐり昭和天皇の叱責をうけて辞任。男爵。
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…〈疑獄〉という言葉は,元来入獄させるか否かが明確でなく,犯罪事実があいまいな事件を意味する。この種の事件は多かれ少なかれ政・官・財界に波及するため,現在では政治問題化した利権関係事件の総称となっている。政治問題として社会的に大きく取りあげられ,ジャーナリズムによる声高な批判を代償として,刑事事件としては訴追されることがきわめて少ないのが疑獄事件の特徴といってよい。 明治初期においては,山県有朋が関与したといわれる山城屋事件など,藩閥政府と政商とが特権の供与をめぐって直接結びついたケースがあり,多くは表沙汰にならなかった。…
…田中義一内閣が1927,28年の2次にわたって実施した中国山東省への出兵。(1)第1次 1927年5月,武漢・南京両国民政府軍が津浦(天津~浦口),京漢(北京~漢口)両鉄道に沿って北伐を開始すると,田中内閣は済南居留日本人(約2000人)保護のため,まず青島(チンタオ)へ6月1日日本軍を上陸させた。…
…昭和天皇の政治的立場は,独特の立憲君主制観と外交面における英米協調主義・対ソ連警戒という二つの特徴をもっており,この立場は,その強い信念に裏打ちされて,戦前から戦後にかけての天皇の地位の大きな変化にもかかわらず終始一貫変わらなかった。 昭和天皇のもっていた立憲君主像とは,いったん輔弼(ほひつ)機関が決めたことには介入しないというものであり,この立場は皇太子時代の教育やヨーロッパ外遊から培われたが,とりわけ29年,前年に起こった張作霖爆殺事件の首謀者に関する首相田中義一の説明が陸軍をかばって矛盾していたことを天皇が叱責したために,田中内閣が総辞職を余儀なくされた事件以来,いっそう強いものとなった。しかしこの不介入の態度はけっして絶対的なものでなく,輔弼機関そのものが破壊されたり輔弼機関が決定をなしえない場合には天皇がみずから判断を下すとされた。…
…田中義一首相が対満蒙政策について天皇に上奏したものと喧伝された文書。1929年12月中国南京で発行されていた《時事月報》に,東京で入手し中国文に訳したという〈田中義一上日皇之奏章〉と題する文書が掲載された。…
※「田中義一」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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