コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

田中義一 たなか ぎいち

9件 の用語解説(田中義一の意味・用語解説を検索)

美術人名辞典の解説

田中義一

陸軍大将・政治家・男爵。山口県生。長州藩士田中信祐の三男。幼名は音松、のち義一、素水と号する。政友会総裁・外相・拓相を経て、総理大臣となる。昭和4年(1929)歿、67才。

出典|(株)思文閣
美術人名辞典について | 情報

デジタル大辞泉の解説

たなか‐ぎいち【田中義一】

[1864~1929]軍人・政治家。陸軍大将。山口の生まれ。内閣の陸相として軍備拡張に尽力し、シベリア出兵を遂行。立憲政友会総裁を経て、昭和2年(1927)組閣。治安維持法改悪、共産党弾圧を行い、対中国積極外交を推進したが、張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件の責任を負って総辞職。

出典|小学館
デジタル大辞泉について | 情報 凡例

百科事典マイペディアの解説

田中義一【たなかぎいち】

陸軍大将,政治家。長州藩士出身。日清・日露戦争に従軍。山県有朋に認められて軍政家としての手腕を発揮,帝国在郷軍人会の創立などに尽力。1918年原敬内閣の陸相としてシベリア出兵を強行,1925年立憲政友会総裁となる。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
百科事典マイペディアについて | 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

田中義一 たなか-ぎいち

1864-1929 明治-昭和時代前期の軍人,政治家。
元治(げんじ)元年6月22日生まれ。大正10年陸軍大将。14年政友会総裁,昭和2年首相兼外相となり,山東出兵を断行,東方会議で対支政策綱領を決定するなど,中国に対する強硬外交を展開。また治安維持法を改正,社会主義運動を弾圧した。張作霖(ちょう-さくりん)爆殺事件の責任をとって4年総辞職。昭和4年9月29日死去。66歳。長門(ながと)(山口県)出身。陸軍大学校卒。

出典|講談社
デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて | 情報 凡例

朝日日本歴史人物事典の解説

田中義一

没年:昭和4.9.29(1929)
生年:元治1.6.22(1864.7.25)
明治大正昭和期に活躍した陸軍軍人,政治家。長州閥最後のリーダー。長州(萩)藩士田中信祐と美与の3男。萩城下に生まれ幼名を音松,妻は陸軍中将大築尚志の娘。廃藩後の困窮のため村役場の給仕を勤め,前原一誠の乱に徴発され加盟,許されてのち代用教員から陸軍教導団,陸軍士官学校,陸軍大学校に進む。日清戦争(1894~95)では第1師団副官として出征,戦後参謀本部2部員のとき,参謀総長川上操六に認められ,31年から4年におよぶロシア留学を命じられた。強烈な個性的言動が目立つのはこのころからで,政治・経済・軍事の三位一体行われる近代戦争の特質を見抜き,三者の一体化を実現しようとした先駆者でもあり,それだけに周囲に誤解されやすかった。満州軍参謀として出征した日露戦争(1904~05)では桜井忠温に戦争作品の執筆を勧めた逸話がある。文学が戦争に大きな影響を与える事実を理解した稀有な軍人でもあった。明治42(1909)年陸軍省軍事課長となり,「軍隊内務書」「歩兵操典」などの改正を企て,一方で在郷軍人会の組織化に成功,44年軍務局長になると朝鮮2個師団増設問題を出して西園寺内閣崩壊の一因を作った。第1次大戦中の大正6(1917)年大日本青年団を組織,その理事長につく。7年原敬内閣で陸軍大臣となり国防の近代化に着手したが,シベリア出兵問題で辞職した。14年予備役編入とともに立憲政友会総裁となり,昭和2(1927)年内閣を組織。だが在任中,共産党大弾圧,治安維持法改正,張作霖爆殺事件があり,軍人時代に示した先取的姿勢を見いだすことはできない。4年,張作霖爆殺事件の責任をとって総辞職,その直後に急逝。<参考文献>高倉徹一『田中義一伝記』上下

(田中宏巳)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
朝日日本歴史人物事典について | 情報

世界大百科事典 第2版の解説

たなかぎいち【田中義一】

1864‐1929(元治1‐昭和4)
陸軍軍人,政治家。長州藩藩士出身。1886年陸軍士官学校(旧8期),92年陸軍大学校を卒業。日清戦争に従軍,日露戦争では大本営陸軍参謀ついで満州軍参謀として転戦,その間に張作霖を助命し,その後の満州進出に役立てる密接な関係を結んだ。1906年山県有朋の命により帝国国防方針の原案を作成,09年陸軍省軍事課長となり,軍政家としての手腕を発揮し,とくに帝国在郷軍人会の創立に尽力した。10年少将,11年軍務局長にすすみ,二個師団増設問題を推進したが,これは第2次西園寺公望内閣の倒壊,大正政変を導くこととなった。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
世界大百科事典 第2版について | 情報

大辞林 第三版の解説

たなかぎいち【田中義一】

1864~1929) 軍人・政治家。山口県生まれ。原内閣の陸相としてシベリア出兵を断行。1925年(大正14)立憲政友会総裁、27年(昭和2)組閣し、山東出兵など大陸進出を強行、29年張作霖爆殺事件の責任を負って辞職した。

出典|三省堂
大辞林 第三版について | 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

田中義一
たなかぎいち

[生]元治1(1864).6.22. 長州,萩
[没]1929.9.29. 東京
陸軍軍人,政治家。長州藩藩士の子に生れ,1886年陸軍士官学校,92年陸軍大学校卒業。日清戦争に従軍。 1904年日露戦争では大本営参謀,満州軍参謀。その際に張作霖を助命し,彼と密接な関係を結んだ。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について | 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

田中義一
たなかぎいち
(1864―1929)

陸軍軍人、政治家。元治(げんじ)1年6月22日、長州藩下級藩士の家に生まれる。1883年(明治16)陸軍教導団に入り、陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業、日清(にっしん)戦争に出征した。戦後は参謀本部に入り、ロシアに派遣され、日露戦争に際しては開戦を積極的に促進、満州軍参謀となり、張作霖(ちょうさくりん)との間に「俺(おれ)が弟」と称するような深い関係をつくった。1906年(明治39)山県有朋(やまがたありとも)の命で「帝国国防方針」の原案を作成、以後軍事課長、軍務局長を歴任し、帝国在郷軍人会の組織、2個師団の増設などにあたり、軍政の中枢にあって手腕を発揮した。1915年(大正4)中将、参謀次長、1918年原敬(はらたかし)内閣の陸相に就任、シベリア出兵を遂行し、1920年男爵、1921年大将となったが、同年陸相を辞した。1923年第二次山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣でふたたび陸相となり、辞職後も山県亡きあとの陸軍長州閥の総帥として軍政界に重きをなし、1925年4月退役と同時に高橋是清(たかはしこれきよ)の後を継いで立憲政友会総裁に就任したが、陸軍機密費横領のスキャンダルで信望を損なった。1927年(昭和2)4月政友会内閣をつくり、外相を兼ね、山東(さんとう)出兵、東方会議、済南事件(さいなんじけん)などの対中国「積極」政策を推進、内政でも第1回普選への干渉、三・一五事件、緊急勅令による治安維持法改正、四・一六事件などの強圧を重ね、「暗黒政治」の悪評を被った。張作霖爆殺事件の責任を追及され、天皇に食言をとがめられ、1929年7月総辞職、9月28日急逝した。[江口圭一]
『高倉徹一編『田中義一伝記』(1981・原書房) ▽田崎末松著『評伝田中義一』(1981・平和戦略綜合研究所) ▽纐纈厚著『田中義一――総力戦国家の先導者』(2009・芙蓉書房出版)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

世界大百科事典内の田中義一の言及

【疑獄】より

…〈疑獄〉という言葉は,元来入獄させるか否かが明確でなく,犯罪事実があいまいな事件を意味する。この種の事件は多かれ少なかれ政・官・財界に波及するため,現在では政治問題化した利権関係事件の総称となっている。政治問題として社会的に大きく取りあげられ,ジャーナリズムによる声高な批判を代償として,刑事事件としては訴追されることがきわめて少ないのが疑獄事件の特徴といってよい。 明治初期においては,山県有朋が関与したといわれる山城屋事件など,藩閥政府と政商とが特権の供与をめぐって直接結びついたケースがあり,多くは表沙汰にならなかった。…

【山東出兵】より

…田中義一内閣が1927,28年の2次にわたって実施した中国山東省への出兵。(1)第1次 1927年5月,武漢・南京両国民政府軍が津浦(天津~浦口),京漢(北京~漢口)両鉄道に沿って北伐を開始すると,田中内閣は済南居留日本人(約2000人)保護のため,まず青島(チンタオ)へ6月1日日本軍を上陸させた。…

【昭和天皇】より

…昭和天皇の政治的立場は,独特の立憲君主制観と外交面における英米協調主義・対ソ連警戒という二つの特徴をもっており,この立場は,その強い信念に裏打ちされて,戦前から戦後にかけての天皇の地位の大きな変化にもかかわらず終始一貫変わらなかった。 昭和天皇のもっていた立憲君主像とは,いったん輔弼(ほひつ)機関が決めたことには介入しないというものであり,この立場は皇太子時代の教育やヨーロッパ外遊から培われたが,とりわけ29年,前年に起こった張作霖爆殺事件の首謀者に関する首相田中義一の説明が陸軍をかばって矛盾していたことを天皇が叱責したために,田中内閣が総辞職を余儀なくされた事件以来,いっそう強いものとなった。しかしこの不介入の態度はけっして絶対的なものでなく,輔弼機関そのものが破壊されたり輔弼機関が決定をなしえない場合には天皇がみずから判断を下すとされた。…

【田中メモランダム】より

…田中義一首相が対満蒙政策について天皇に上奏したものと喧伝された文書。1929年12月中国南京で発行されていた《時事月報》に,東京で入手し中国文に訳したという〈田中義一上日皇之奏章〉と題する文書が掲載された。…

※「田中義一」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
世界大百科事典 第2版について | 情報

今日のキーワード

百条委員会

地方自治体が議決により設置する特別委員会の一つ。名称は「地方自治法第100条」に基づく。百条委員会は、地方公共団体の事務に関する調査を行い、関係者への聞き取りや記録の提出を請求、拒否した者には罰則が科...

続きを読む

コトバンク for iPhone

田中義一の関連情報