日本大百科全書(ニッポニカ) 「田中義一内閣」の意味・わかりやすい解説
田中義一内閣
たなかぎいちないかく
(1927.4.20~1929.7.2 昭和2~4)
第一次若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣が台湾銀行救済の緊急勅令案を枢密院で否決され、総辞職した後を受けた政友会内閣。田中義一が首相・外相を兼任、蔵相高橋是清(たかはしこれきよ)、内相鈴木喜三郎(すずききさぶろう)、陸相白川義則(しらかわよしのり)。組閣後ただちに3週間の支払猶予令(モラトリアム)を施行し、金融恐慌の鎮静に努めた。対中国「積極」外交を最大の使命とし、中国国民革命が華北、「満州」に波及する形勢となったのに対し、1927年5月第一次山東(さんとう)出兵を行って北伐に干渉、6~7月東方会議で対中国強硬政策を練り、10月には張作霖(ちょうさくりん)に北満州の新鉄道建設を承認させた。1928年4月第二次山東出兵を遂行、5月済南事件(さいなんじけん)を引き起こし、激しい日貨排斥運動を招いた。また爆殺された張作霖の後を継いだ張学良(ちょうがくりょう)の東北政権が12月中国国民政府に合流(易幟(えきし))したため、「積極」外交は挫折(ざせつ)した。一方、同年2月の第1回普通選挙への干渉、三・一五事件、労働農民党などの禁止、緊急勅令による治安維持法の死刑法への改正、1929年四・一六事件など、共産主義運動、労農運動を厳しく抑圧し、「暗黒政治」という悪評を招いた。また議会での地位は不安定で、田中首相の野放図(のほうず)な閣僚人事によって内紛を重ねた。1929年、議会で張作霖爆殺事件を満州某重大事件として追及され、不戦条約批准問題でも苦境にたち、野党の攻撃は切り抜けたものの、田中が張爆殺の責任問題について天皇に食言をとがめられるに及んで、総辞職した。後継内閣は浜口雄幸(はまぐちおさち)によって組閣された。
[江口圭一]