朝日日本歴史人物事典 「渡辺国武」の解説
渡辺国武
生年:弘化3.3.3(1846.3.29)
明治時代の官僚政治家。父は高島藩(長野県)藩士政徳。兄渡辺千秋の3男渡辺千冬を養子とする。幕末に江戸で洋式兵学,外国語を学び,明治3(1870)年伊那県に出仕する。4年,民部省を経て大蔵省に転じ,8~9年租税寮で地租改正事業に従事する。9年高知県権令に転じ,11年同県令となり,立志社員を県庁から追放し連合区会の成立を不認可とするなど,民権運動を弾圧した。12年,県下の4郡合併を専断したため,譴責のうえ依願免官となる。京都に住んで参禅し,東西の哲学に親しみ,無辺侠禅と号した。14年福岡県令に復帰し,15年大蔵省調査局長に転じ,主計局長を経て,21年松方正義蔵相のもとで大蔵次官となった。 23年より議会対策で頭角を現し,25年第2次伊藤博文内閣では松方のあとを襲い蔵相に抜擢され,日清戦争中は戦時財政を担当した。28年子爵に叙せられ,一時蔵相を松方に譲って逓信相に転ずるが,再び蔵相に復帰して日清戦後経営の大綱を立案。軍備拡張,製鉄所建設,鉄道敷設,教育拡充などを推進するため,登録税,営業税,葉煙草専売の創設や酒造税の増税を行った。33年立憲政友会の創立委員長となり伊藤博文総裁の組織を助け,副総裁をもって任じた。伊藤は政党出身者とのバランスをとるため官僚出身の渡辺を利用した。同年10月成立の第4次伊藤内閣では,当初予定された井上馨を排して自ら蔵相に就いたが,旧自由党系から反発を受け,星亨と対立。34年度,35年度予算について極端な緊縮方針を主張したため,積極政策をとる政友会出身閣僚と相容れず,34年5月に至って閣内不統一のため内閣は総辞職することとなった。以後,政界,官界から身を引き,失意の晩年を送った。<参考文献>民友社『山県有朋 附渡辺国武,岡本柳之助』
(柴崎力栄)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報