湯屋谷村(読み)ゆやだにむら

日本歴史地名大系 「湯屋谷村」の解説

湯屋谷村
ゆやだにむら

[現在地名]宇治田原町大字湯屋谷

鷲峰山じゆぶせん北側の山中に位置し、田原川最上流の塩谷しおたに中谷なかたに西谷にしたになどの谷々に集落が散在する。西は大道寺だいどうじ村、東は奥山田おくやまだ村。

伝えによれば、和銅三年(七一〇)この地に温泉が発見されたといい、天平年間(七二九―七四九)には行基によって湯原ゆはら寺が創建されたという。温泉の盛んな折は上の湯・中の湯・下の湯に分れ、一般の湯治人で賑ったといわれるが、田原盆地を取り巻く山地一帯には鷲峰山金胎こんたい(現相楽郡和束町)をはじめ、奥山田の医王教いおうきよう寺など修験系の寺院が多く、温泉を中心とした湯原寺もそれら一連の寺院の一つであったと思われる。集落も湯原寺や温泉を中心に早くから開けていたに違いない。また施基皇子(田原天皇)の子で「万葉集」に歌の載る湯原王は、この地に住したともいう。

湯屋谷村
ゆやだにむら

[現在地名]上野市湯屋谷

蔵縄手くらなわて村の西。標高二〇〇メートル前後の山間の小村。明暦四年(一六五八)古検を改め、本高六七・二六四石、平高一八一・七石。寛延(一七四八―五一)頃の戸数四一、人口一八二、馬五で、寺は蓮徳れんとく(宗国史)。ほかに蓮徳寺末の阿弥陀寺界外かいげ光明こうみよう寺末の西ノ坊があったが、明治初年廃寺となった。

石原いしはらの蓮徳寺は梅母山と号し真言宗豊山派、本尊薬師如来は秘仏で六〇年ごとの開帳である。沖森直三郎氏蔵の大般若経巻六〇〇に「治承元年十二月二十二日、於古山蓮徳寺書、但一帙之内」とある。古くは奈良興福寺末で、嘉吉元年(一四四一)の興福寺官務牒疏(内閣文庫蔵)に「僧房八宇、聖武帝御願、行基僧正為温泉、彫刻薬師仏像、安置之」とある。

湯屋谷村
ゆやだにむら

[現在地名]和歌山市湯屋谷

名草なくさ郡の東端たに村の北東にある。和泉国との国境葛城(和泉)山脈に入込んだ村で、南北に長い。東の那賀ながやま(現岩出町)との境を大坂街道(旧熊野街道)が通る。「為房卿記」永保元年(一〇八一)九月二五日条に「着紀伊国雄山口湯屋」とみえるのは当地と考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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