滝原村
たきのはらむら
[現在地名]田島町滝原
糸沢村の南西に位置する荒海川源流域の山村。同川は荒海山を源とし、村内を東流、村境で山王川を合せて北流する。東端を下野街道が通り、南は山王峠越で横川村(現栃木県藤原町)に至る。西へは中山峠越で八総村(現舘岩村)に至る道がある。また伊南郷・舘岩郷から中山峠を経て下野街道へ出る道も通る。村名は大滝があることに由来するという(新編会津風土記)。
滝原村
たきばらむら
[現在地名]邑智町滝原
蛇行しながら北流する江川左岸に位置し、下流は亀村。南方に当村および明塚村・簗瀬村・信喜村にまたがる青杉ヶ城山(四九四・七メートル)がそびえ、中世には青杉城があった。南北朝期、佐波善四郎顕清(顕連)は南朝方となり、青杉城や付近に築いた鼓ヶ崎城・丸屋城に拠った。元弘三年(一三三三)伯耆船上山(現鳥取県赤碕町)に籠った後醍醐天皇のもとに石見国から「沢・三角ノ一族」が馳せ参じているが(「太平記」巻七船上合戦事)、これは佐波氏と三隅氏である。同書巻二八(三角入道謀叛事)によると、正平五年(一三五〇)七月二七日夕刻、足利尊氏方の高師泰の軍勢二万余騎が佐波郷に至り、「青杉・丸屋・鼓崎トテ、間四五町ヲ隔タル城三ツ」を江川より遠望している。
滝原村
たきばらむら
[現在地名]関川村滝原
荒川右岸段丘上にあり、西は上野山村、東は湯沢村に接し、荒川対岸は下関村。万治元年(一六五八)の女川組本田畑検地寄目録(平田家文書)に村名がみえ、高二〇石六斗余、田一町七反一畝余・畑屋敷二反五畝余。小見村の平田平内一族によって開発されたとされ、同年の検地帳(同文書)には親族の弥三兵衛・弥五郎・善七郎の名がみえる。
滝原村
たきばらむら
[現在地名]小諸市滝原
東は菱野村・後平村、西は深沢川を境として糠地村・井子村、南は西原村などの村々に接し、北は高峰山(二〇九一・六メートル)の急斜面で、山麓二〇ヵ村の入会採草地であった。
「和名抄」に載る「大村郷」の境域にあり、また左馬寮領菱野牧の西限は深沢川と考えられているので、その牧域に入る。
中世は大室氏の支配下にあったと考えられるが、以後はつまびらかでなく、「旧版北佐久郡志」には「小笠原長清の七男朝光本郡岩村田に移り大井と称す。
滝原村
たきばらむら
[現在地名]只見町坂田
布沢口村の北東、布沢川右岸に位置する。集落は狭い谷間の山麓にある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録および慶長二年(一五九七)の藤三郎倉入在々高物成帳(福島県史)にはともに「滝沢」とあり、高二四四石九斗六升。免は四ツ一分(藤三郎倉入在々高物成帳)。「会津風土記」に滝原とみえる。和泉田組に属した。天明八年(一七八八)の廻国使案内手鑑(馬場家文書)では高二二五石余、免三ツ四分三厘六毛で年貢は三分一が米納、家数二二(うち空家一)・人数九〇。同年巡見使に同行した古河古松軒は「東遊雑記」に「梁取と布沢の間悉く嶮山にて、馬はいうに及ばず、人の往来も自由ならざる嶮しき道なり。
滝原村
たきのはらむら
黒岩村西部の北に位置する。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に滝ノ原村とみえ、高三二石余、うち田方一八石余。里見氏給人領。同一一年・一五年の里見家分限帳によると、一村妙音院(現館山市)の寺領。元和六年(一六二〇)東条藩西郷氏に与えられた。この時の村高四〇石余(東条藩領知目録)。正保郷帳では田高二六石余・畑高一三石余。
滝原村
たきはらむら
[現在地名]君津市滝原
折木沢村の東、小櫃川の右岸にある。滝の不動(現亀山神社)下の道から徒歩渡りで東方釜生村へ通じる。貞享元年(一六八四)の酒井忠挙領知目録(酒井家文書)に村名がみえ、上野前橋藩領。以降の領主の変遷は向郷村に同じ。元禄郷帳では高一七石余、天保郷帳では高二三石余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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