日本歴史地名大系 「大村郷」の解説
大村郷
おおむらごう
現答院町中央部の
〔中世〕
康永四年(一三四五)二月一二日の沙弥道意証状(都城島津家文書)に「薩摩国答院大村郷内かすけた并宗三郎入道之親跡号薗城間事」とみえる。同所は重春から女子常陸女房へ譲られ、さらに子息源八へ伝領された地であったが、車内殿子息幸満が買得したことが沙弥道意により証されている。「
答院記」によると、同じ康永頃大村太郎が大村城主であったという。同城は
答院郡司大前氏により築かれ、建久元年(一一九〇)頃には一族の滝聞太郎道房が居城したといい、その子孫が大村太郎とされる。なお大村太郎は建武三年(一三三六)頃渋谷氏系
答院氏一族の吉岡将重に敗れて
答院記)。応安元年(一三六八)四月七日の薩摩・肥前両国檀那願文(熊野本宮大社文書)には「けたうゐぬおうむらかうせんつしのちうそうしあぬはうてうへん」の名がみえ、文中三年(一三七四)五月二〇日の願文(同文書)には「けたうゐんおうむらのかう」の「かうつはしのしゆんちあしやりの御しつほくちの山のはう」とみえている。
南北朝期後半には答院氏が大村城を回復、康暦二年(一三八〇)頃には
答院重茂の次男重義が大村を領して大村氏を称した。だが応永八年(一四〇一)一〇月二五日重義の子重続が
答院久重の次男諸重が大村を領して大村氏を称したという(
答院記)。同一八年島津元久が没しその跡を継いだ久豊が総州家の久世と結ぶと、伊集院頼久は大村・
答院の検田は、一〇月二〇日までの間に
大村郷
おおむらごう
「和名抄」は「於保无良」と訓ずる。「和泉志」などによれば、
大村郷
おおむらごう
大村郷
おおむらごう
大村郷
おおむらごう
大村郷
おおむらごう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報