日本歴史地名大系 「潮江庄」の解説
潮江庄
しおえのしよう
江戸時代の潮江村を遺称とする。塩江庄・湖江庄とも。藤原憲長入道の寄進によって九条家領となり、建長二年(一二五〇)に九条道家から前摂政一条実経へ譲与され、一条家領となる(同年一一月「九条道家初度惣処分状」九条家文書)。この時の処分状では「新御領」のなかに上げられており、憲長入道の寄進は道家の代のことであったとみられる。永仁四年(一二九六)に
潮江庄
うしおえのしよう
徳治三年(一三〇八)四月一六日の官宣旨案(「蠧簡集拾遺」所収金剛頂寺文書)にみえ、後二条天皇によって最御崎寺の金剛・胎蔵両界長日供養法および尊勝陀羅尼・光明真言などの料所として施入されている。この朝廷の保護のもと、最御崎寺領としてしばし安泰であったようであるが、鎌倉末期と思われる年不詳一二月二六日付の綸旨(同書所収最御崎寺文書)に「寺領室津・潮江庄守護代以下輩狼藉事」、元亨四年(一三二四)二月五日付の後醍醐天皇綸旨(同書所収金剛頂寺文書)に「土左国潮江保・室津一色等所被返付最御崎寺也」とみえ、在地の武士勢力に狼藉や押領されていた様子がうかがわれる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報