瀬古村(読み)せこむら

日本歴史地名大系 「瀬古村」の解説

瀬古村
せこむら

[現在地名]藤枝市瀬古一―三丁目・瀬古・駿河台するがだい一―二丁目・南駿河台みなみするがだい一―二丁目・志太しだ二丁目

瀬戸せと川の支流谷稲葉やいなば川を挟んで稲葉堀之内いなばほりのうち村の南東に位置し、北は瀬戸川を挟んではら村、北西と南東を志太村に挟まれる。志太郡に属する。寛永一九年(一六四二)の田中領郷村高帳に村名がみえ、高二二八石余。その後もしばらく田中藩領が続き(「寛文朱印留」・国立史料館本元禄郷帳)、正徳二年(一七一二)から寛保二年(一七四二)幕府直轄領になるまでは谷稲葉村と同じと考えられる。

瀬古村
せこむら

[現在地名]神戸町瀬古

平野井ひらのい川の流域に位置し、北は下宮しもみや村・新屋敷しんやしき村。村名は人夫の称である勢子が転訛したとする説がある(新撰美濃志)慶長郷帳に「せこ村」とみえ、村高九四〇石。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では西尾嘉教(揖斐藩)領。寛永一二年(一六三五)大垣藩領となったとされ、幕末に至る。正保郷帳では田高五三七石余・畑高四〇二石余、ほかに新開二九石余がある。文化六年(一八〇九)に南の柳瀬やなせ村との間に用水争論が起こったが、済口証文(林文書)が取交わされている。瀬古の位置は古くは字野白のばくの地が中心で、そこには大源寺跡・春日神社跡の地名が残る。野白にある墓地は宇野氏一族のみで、同氏の祖は大和源氏と伝えられ、子孫の正善は織田秀信に仕えて八〇〇石を知行したという(神戸町史)

瀬古村
せこむら

[現在地名]守山区瀬古

北を庄内川が、南を矢田やだ川が流れ、東に勝川かちがわ街道が通っている。瀬古から幸心こうしんへかけて条里制の遺構が認められる。織田信雄分限帳に「せこの郷」とみえる。寛文一一年(一六七一)の家数四五、人数男一九七・女一七二(寛文覚書)。「徇行記」によれば、田は三四町五反九畝余、畑は二七町一反八畝余で、概高九二一石余のうち七四八石余が藩士一二人の給知。

瀬古村
せこむら

[現在地名]海津町瀬古

松木まつのき村の東、長良川右岸に立地する。天正一〇年(一五八二)一二月晦日の吉村氏吉宛織田信雄宛行状(吉村文書)裏書に「せこ」とあり、翌一一年九月一日氏吉は「せこ」など一四ヵ所三千貫余をあらためて宛行われている(「織田信雄宛行状」同文書)。慶長郷帳に村名がみえ、高二二七石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では徳永昌重(高須藩)領。正保郷帳では幕府領で、田五九石余・畑一四七石余・無地高四七石余、うち高二七石余は新開。元禄郷帳でも幕府領。寛永一八年(一六四一)の検地帳写(森川文書)に田畑合一九町五反余とある。延宝四年(一六七六)の免割帳(同文書)では反別一六町九反余で取米八四石余。

瀬古村
せこむら

[現在地名]大野町瀬古

中之元なかのもと村の北に位置する。慶長郷帳に「せこ村」とみえ、高七二七石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では西尾嘉教(揖斐藩)領。正保郷帳では田六四七石余・畑八〇石余のうち大垣藩領五四二石余・幕府領一八五石余。元禄郷帳でも同相給。明治五年(一八七二)村明細帳では東西に分けて書上げられているが、西瀬古村は幕府領で、田一〇町四反余・屋敷畑五反余、家数二〇・人数五一、馬一一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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