熊の生息する北方ユーラシア,北アメリカ北部の森林地帯の狩猟民が熊を殺すときには,(1)熊の殺害,(2)肉の消費,(3)霊の送り(=甦り(よみがえり))という3場面で構成され,各場面が各種の呪言・禁忌を伴う一連の儀礼よりなる祭事を行っていた。所によってはいずれかの場面がとくに強調されることもあるが,このような〈熊の殺害をめぐる儀礼複合〉を総称して〈熊祭〉と呼ぶ(祭り的色彩の強いアイヌ,ニブヒ,ツングース,オビ・ウゴル,ラップの事例を熊祭と呼び,そのほかは熊崇拝=儀礼として区別する立場もある)。熊祭の汎北半球的分布(ツンドラ帯は除く)についてはアメリカの人類学者ハロウェルAlfred I.Hallowellの博士論文(1926)でつとに明らかにされており,各地の事例の間に驚くべき類似性のあることが注目された。日本ではアイヌの熊祭〈イオマンテ(イヨマンテとも呼ぶ)〉が有名である。これは熊狩りで生け捕られた子熊を一定期間飼育したのち,おおぜいの親族知己を招いて神の国へ〈それを送る(アイヌ語でイ・オマンテ)〉祭礼である。イオマンテはアイヌ文化の核心をなす重要な行事であるため,近年にもときおり挙行されることがあり,映像にも収録されている。アイヌはまた猟でしとめた熊に対しても略式の〈送り(オプニレ)〉を行ったことが知られており,日本の狩猟集団マタギもやはりオプニレ型の熊祭を残している。
ところで世界各地の熊祭の事例を比較してみると,オプニレ型が汎北半球的広がりを示すのに対して,飼育した子熊を送るというオマンテ型は北海道,サハリン(樺太),アムール流域(アイヌ,ニブヒ,ウイルタ,オロチ,ウリチ)にしか認めることができない。したがって,北東アジアのこの一角ではなんらかの歴史的経緯からオプニレ型よりオマンテ型への展開が生じたものと推察される。そこに動物飼育文化の影響を見る者もいるが,安定した漁労活動に支えられた比較的高い定住性こそが飼料をはじめとする熊の飼育のために必要な諸条件を整えたという意見も聞かれる。
しかし熊祭には,類型の違いを超越する,以下のような一連の共通項も認めることができる。(1)熊は野獣界に君臨する〈野獣の主〉〈森の主〉ないしはその使者である。(2)熊はまた〈仮装した人間〉であって,猟師に殺されることで毛皮から解放され,本来の姿へ戻ることができ,しかもそれを望んでいると信じられている。(3)熊は人間の言葉を解するゆえ,悪口や手柄話が禁句であるばかりか,熊の本名を口にすることもはばかられ,異称・通称(じいさん・ばあさん,おじ・おばなどの親族名称,黒い奴・蜜の脚)などで呼ばれる。(4)殺された熊は賓客として迎えられ,手厚くもてなされ,その霊はみやげ物を持たせて送り帰される。(5)肉は祭りの場で集団的に消費される。女性が前半身の肉を食べることは禁ぜられる(女性は祭りから排除されるか,遠ざけられるのが一般的である)。(6)骨は傷つけたり捨てたりしてはならず,とくに頭骨はたいせつに扱われ,保全の措置が講ぜられる(甦りは骨の保存によって保証されると信ずるのである)。このような共通項がはたして人類の普遍性に根ざすものなのか,あるいは歴史的に共通の根を持つゆえなのかはまだ明らかでない。ただし一部には,旧石器時代におけるホラアナグマcavebearの埋葬例(スイスのドラヘンロッホ洞窟)や洞窟絵画の熊の描写を熊祭と結びつける所説もあって,熊祭の淵源は旧石器時代にまでさかのぼる可能性もあるのである。だが熊祭の具体的あり方はまたそれぞれに個性的でもあって,婚礼の形をとったり(フィンランド),仮面劇の上演という演劇的方向へ発展したり(オビ・ウゴル),神話の再現を内容としたり(ツングース),オプニレ型のものが年回忌として盛大に催される場合(ニブヒ)などはその代表的事例である。
→狩猟儀礼
執筆者:井上 紘一
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…現在の考古学の知見では,続縄文文化(紀元前後‐7,8世紀)まではさかのぼることが可能で,次の擦文文化(8,9‐13世紀)は後代のいわゆるアイヌ文化の先行形態と解されている。もっとも,今のところ擦文文化にはアイヌ文化に特有な熊送り儀礼(イオマンテ(熊祭,熊送り))の痕跡がみられないことから,擦文文化からアイヌ文化への移行過程については,今後解明すべき問題が多く残されている。擦文文化期には樺太および北海道のオホーツク海沿岸部から千島列島にかけた地域に,大陸の靺鞨(まつかつ)・女真文化と深いかかわりを持ち,熊送り儀礼がみられるオホーツク文化が存在した。…
… 一般に採集狩猟民の精神生活にあっては,人間と動物あるいは自然は,きわめて強い親近感と共感とをもって結ばれている。北方狩猟民に広くみられる熊祭の儀礼には,日本のアイヌの観念からもよくうかがわれるように,クマの姿を借りて人間の世界に現れた神を,手厚くもてなしたうえ,その仮の姿を破って神々の国に送り返すという思想がその根底に横たわっている。神は人間のこの歓待と贈物に対し,神々の国から,同様に神々の仮の姿である山の幸を豊かに送ってこれに報いるという。…
…狩猟者がしとめた野獣の解体に際して示す儀礼的慎重さはここに由来するのであり,全骨格を元どおりに正しく組み立てて葬ったり,木に懸けたり,とくに頭骨を保存したり高く掲げたり,また一般には獲物の一部を特別に処置する,いわゆる〈もの送り〉の儀礼は,きわめて普遍的な狩猟儀礼である。アイヌは熊,シャチ,フクロウ,キツネなどの動物を〈送る〉儀礼を〈イオマンテ〉と称するが,とりわけ北方ユーラシアと北米大陸北部に広く分布する〈熊祭〉は,〈もの送り〉の代表例である。そこでは宥和,哀願,威嚇,欺瞞などを意図する〈主〉との対話(祈禱など),〈主〉に対する贈与(供物や犠牲),性生活や女の排除(禁忌),特殊な狩り言葉の使用といった儀礼行為,すなわち狩猟儀礼が集約的に表現されている。…
※「熊祭」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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