熊谷村(読み)くまだにむら

日本歴史地名大系 「熊谷村」の解説

熊谷村
くまだにむら

[現在地名]温泉町熊谷

今岡いまおか村の東に位置し、岸田きしだ川支流熊谷川に沿って下流から仁連寺にれんじ栃谷口とちだにぐち神田かんだ大熊おおくまの集落がある。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」には「かんた」「大くま」とみえ、神田には中村彦左衛門殿が住していた。なお現浜坂はまさか相応峰そうおうみね寺の過去帳の永禄六年(一五六三)分に「熊野谷ノ五郎左衛門 道金」、同八年分に「熊野谷ノ弥衛門 道永」とみえ、熊野谷とは熊谷川流域のことと推定される。江戸時代の領主の変遷は歌長うたおさ村に同じ。郡中惣高(福井家文書)では太閤検地高とみられる古高一〇六石余。


熊谷村
くまんたにむら

[現在地名]珠洲市熊谷町

鹿野かの村・本江寺ぼんこうじ村の東、南流するかな川流域に立地する。永禄九年(一五六六)二月二七日の勅定山青竜せいりゆう寺旧蔵梵鐘銘に「熊谷」とある。寛永六年(一六二九)の裁定状(三百苅文書)に村名がみえ、当村の久左衛門と岩坂いわさか村の三百苅家が伐採した塩薪をめぐって争論、代官稲葉左近直富により久左衛門が成敗されている。正保郷帳に村名がみえ、高二五五石余、田一一町五反余・畑五町五反。


熊谷村
くまがいむら

[現在地名]潟東村熊谷

山口やまぐち新田村の東に連なる。元和四年(一六一八)の長岡藩知行目録の貼紙に「寛永七年ニ御蔵入とかへ地ニ罷成うけ取申候」として遠藤えんどう村・五之上ごのかみ村とともに村名がみえ、高八石四斗とある。かつて山口新田村一村であったが、慶安二年(一六四九)総検地の際分離したという。天保郷帳四五三石四斗余。


熊谷村
くまだにむら

[現在地名]吉川町富岡とみおか

山口やまぐち新田村の南、北谷きただに川中流左岸の丘陵地にある。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は門前もんぜん村に同じ。正保郷帳では田方二六八石余・畑方二五石余。村高は幕末まで変わらない。享保八年(一七二三)武士むし山開発をめぐる争論に巻込まれている(吉川町誌)


熊谷村
くまだにむら

[現在地名]篠山市熊谷

寺内てらうち村の西に位置し、藤岡ふじおか川と黒岡くろおか川が合流する。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に「熊谷村」とみえ、高二四二石余。正保郷帳では田高二二一石余・畠高二一石余。「丹波志」ではきた庄のうちで、高二六六石余。天明三年(一七八三)の篠山領内高並家数人数里数記では新庄組で、家数二一・人数九八。「多紀郡明細記」によれば、山役米一石六斗余のほか薪四八荷余・瓦焼木二四束を納めていた。


熊谷村
くまだにむら

[現在地名]宮崎村熊谷

北のじよう山と南の若須わかす岳の東に開けた谷間に位置し、四方を山に囲まれる。「越前国名蹟考」は上下二村に分れるとする。慶長三年(一五九八)九月の越前府中郡在々高目録に熊谷村二二四・九四石とみえ、先高一六六石余・出分五八石余。同一一年頃の越前国絵図では「山干飯下之郷」に含まれる。初め福井藩領、元禄一〇年(一六九七)高森藩領、享保五年(一七二〇)以降幕府領

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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