猿山村(読み)さるやまむら

日本歴史地名大系 「猿山村」の解説

猿山村
さるやまむら

[現在地名]緑区上山かみやま町・白山はくざん

鶴見つるみ川に沿った北部の平地を八王子道が通る。道は神奈川宿(現神奈川区)から東の鴨居かもい村を経て当村に入り、村内をほぼ東西に走り西の中山なかやま村に通じる。南部は白根しらね(現旭区)に続く丘陵に谷戸が交錯している。「風土記稿」には石神谷・打越谷・鍛冶谷・表谷・猿山台・胴山の小名がみえる。鶴見川の対岸は佐江戸さえど村。小田原衆所領役帳に三郎殿「卅四貫文 小机猿山 代官遠藤兵部正」とある。幕末頃から二村に分れた。例えば文久三年(一八六三)一月の保土ヶ谷宿当分助郷村々議定連印帳(県史一〇)には上猿山かみさるやま村・下猿山村がみえる。

猿山村
さるやまむら

[現在地名]下総町猿山

現下総町中央部のやや西寄りに位置し、北は高岡たかおか村、南西滑川なめがわ村、南は大菅おおすげ村、東は小野おの村・七沢ななさわ村、北西は常陸国稲敷いなしき金江津かなえづ(現茨城県河内村)。応永三三年(一四二六)四月一〇日の大須賀朝信証状(大慈恩寺文書)大慈恩だいじおん(現大栄町)当知行領の一所として「猿山村内」とみえ、その面積は同年八月の大慈恩寺寺領注進状案(同文書)に二反とある。また元亀四年(一五七三)三月四日の大須賀政朝証状(同文書)などにも猿山村がみえる。寛文四年(一六六四)の井上政清領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、高岡藩領。幕末まで同藩領。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高五三六石余。

猿山村
さるやまむら

[現在地名]南足柄市ひろ

西南に明神みようじんヶ岳がそびえ、北境から東をかり川が流れ、南境を流れる上総かずさ川を東隣飯沢いいざわ村境で合する。西は宮城野みやぎの(現足柄下郡箱根町)と接する。

近世は小田原藩領。寛永初期の小田原領西筋村々高ノ帳に「高百四拾三石三斗五升弐合 猿山村」とあり、天保郷帳では二七九石余に増加している。万治二年(一六五九)の検地帳写(梶文書)によれば、田一四町五反余、畑九町九反余、山畑五九町一反余、「杏木畑・スモノ木・漆畑・とうけ屋敷」などの小字がみえる。文久二年(一八六二)には藩国産方が植付けさせた薬草柴胡掘りを行っている(「柴胡買役覚書」湯山文書)

猿山村
さるやまむら

[現在地名]境町猿山

長井戸ながいど(現在は水田)西方に所在。東と東南を除き長井戸沼とその枝ヤトに囲まれ、東は蛇池じやいけ村。西南部に平地林を有し、南北に日光東街道が貫通。江戸時代は下総関宿藩領で、「寛文朱印留」に村名がみえる。猿島郡上郷に属し、寛文一一年(一六七一)の関宿領茂右衛門御代官場石高覚帳(松本好司文書)では本高一三〇・九三八石のほか六〇・二七石があり合計一九一・二〇八石。宝永三年(一七〇六)の指出帳(長野監治文書)によると村域は東西一一町・南北二二町、村高一九一・二〇三石。家数四一のうち本百姓三四・水呑二・名主一・寺一・寺門前一・紺屋二、人口二五九、うち男一二九・女一二七・出家一・禰宜一・神守一、馬二八・白犬一、藻草取小船五艘を有し、林一一町歩余は松木林。

猿山村
えてやまむら

[現在地名]飯高町清瀬きよせ

大俣おおまた村の西、はちす川の左岸にある。元禄一五年(一七〇二)新田畑午改帳(徳川林政史蔵)に「猿山村」と記されている。明治二年(一八六九)大指出帳(同蔵)には「田方無御座候」とあり、山間部の村落ゆえに田がきわめて少なかった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報