玉手村(読み)たまてむら

日本歴史地名大系 「玉手村」の解説

玉手村
たまてむら

[現在地名]柏原市玉手町・石川いしかわ町・片山かたやま町・円明えんみよう町・あさひおか一―三丁目・国分西こくぶにし二丁目

片山村の南、玉手山たまてやま丘陵の西側の山ぎわに位置する。西は石川まで。玉手山には名勝旧跡や遺跡が多い。山腹にある浄土宗安福あんぷく寺は行基の開基と伝える名刹。山上には安福寺珂憶の建立した大坂夏の陣の戦没者供養塔が建つ。同じく山上には古墳前期の玉手山古墳群がある。また安福寺の山門を入った所すぐ両側に古墳後期の安福寺横穴群がある。産土神伯太彦はかたひこ神社は安福寺の西横に位置する。延喜式内社。

玉手村
たまでむら

[現在地名]御所市大字玉手・東寺田ひがしてらだ

玉手山(一五五メートル)北麓に立地。集落中央を満願寺まんがんじ川が東流、西は蛇穴さらぎ村。満願寺(浄土宗)南方の小字南浦みなみうらを一に玉田たまんだと称し、明治初期まで俗に満願寺村といった(大和国細見図)。「日本書紀」仁徳天皇四〇年条に、

<資料は省略されています>

という地名説話がみえる。また葛城襲津彦の子孫玉田宿禰の本居の地といわれ、「姓氏録」右京皇別には同じく襲津彦の後に玉手朝臣の名がみえる。蒲生君平が「玉手一に玉田とす。是昔時玉田宿禰邑なり」(山陵志)と論じている。

中世には玉手庄があり、応永二五年(一四一八)の吐田庄注進文(春日神社文書)に「八郎タマテ」の名がみえ、興福寺国民玉手氏の拠る所となった。

玉手村
たまてむら

[現在地名]姫路市玉手

飾西しきさい郡に所属。中地ちゆうじ村の南西に位置する。天正三年(一五七五)の近村めぐり一歩記(智恵袋)に「玉手は、古へ英賀津新領地の玉代也」とある。慶長国絵図に村名がみえる。江戸時代を通して姫路藩領。正保郷帳では田方五七二石余・畠方一三石余。天保郷帳では高七三七石余。元文二年(一七三七)の村明細帳(飯塚家文書)によれば高六九九石余、田畑三六町余、ほかに新田二反余があり、家数七七のうち本百姓六四(一〇石以上二〇)・水呑一三、人数三七四のほかに他村からの奉公者四六がいた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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