玉田村(読み)たまだむら

日本歴史地名大系 「玉田村」の解説

玉田村
たまだむら

[現在地名]三重町玉田

川辺かわべ村の南東北東流する三重川支流玉田川流域にあり、上流寄りの中玉田、下流寄りの下玉田の二集落からなる。臼杵うすきおか城路が北東から南西に通り、岩戸いわど(現清川村)へ至る。近世を通じ臼杵藩領。慶長二年(一五九七)の三重郷検地帳写(渡辺家文書)には玉田村の一冊が含まれ、村位は中。同一一年の惣御高頭御帳でも玉田村とあり、高七二〇石余、上ノ村組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば本高五二二石余・出来高二五四石余、田方五〇五石余・畑方二七一石余。


玉田村
たまだむら

[現在地名]夢前町玉田

現夢前町最南端に位置し、夢前川中流域左岸に立地する。東は神東じんとう下砥堀しもとほり(現姫路市)、南は飾東しきとう大野おおの(現同上)など、西は飾西しきさい東坂本ひがしさかもと(現同上)、北は山富やまとみ村。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳では田方一〇三石余・畑方二四石余。宝永年間(一七〇四―一一)の前之庄組高反別帳写(清瀬家文書)では高一五一石余(うち無土百姓弁二五石余)、反別は田方五町七反余・畑方一町六反余、免四ツ四分、家数二〇・人数一二五。


玉田村
たまだむら

[現在地名]鹿沼市玉田町

くろ川右岸に位置し、東は上府所かみふどころ村、南は押原おしはら村、北は見野みの村・富岡とみおか村。村の西部は丘陵である。日光山往古社領六十六郷の一つに玉田郷がある(日光山常行三昧堂新造大過去帳)。慶安郷帳に村名がみえ、田二八一石余・畑一三七石余で、ほかに瑞光ずいこう寺領二〇石。寛永一二年(一六三五)から阿部重次領となり、慶安元年(一六四八)武蔵岩槻藩領。元禄郷帳では旗本仁木・向山の二給で、幕末まで同じ。幕末には仁木知行六二九石余・向山知行一二六石余・瑞光寺領二〇石(旧高旧領取調帳)


玉田村
たまたむら

[現在地名]湯原町本庄ほんじよう 玉田

鉄山かねやま川下流域の左岸に位置し、東は上岸かみぎし村、西は小谷こだに村。正保郷帳によれば田高一一石余・畑高一九石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳によれば改出高一三石余・開高二石余。元禄初頭の戸数三(作陽誌)領主交替仲間なかま村に同じ。宝暦一四年(一七六四)の村明細帳(矢吹文書)によれば、反別は田方一町二反余・畑方三町三反余、毛付高三六石余、家数六・人数三一、牛二。百姓持林四ヵ所(四反余、運上銀一匁六分余)、用水堰樋一、土橋四、用水は田方は谷水懸りで、全体に旱損・水損がみられ、畑は旱損七歩・水損三歩、山中の村方で毎年作物の不熟が多い。


玉田村
たまだむら

[現在地名]矢板市玉田

石関いしぜき村の西に位置する。北は高塩たかしお村、東は山苗代やまなわしろ村に接する。慶長三年(一五九八)に宇都宮氏と関係をもつ笠間浪人の斎藤彦右衛門一族が当地に土着し、村役人となったという(斎藤家系図)。近世は初め宇都宮藩領、寛延二年(一七四九)下総佐倉藩領、安永三年(一七七四)再び宇都宮藩領となり幕末に至る(「紀氏雑録続集」など)


玉田村
たまだむら

[現在地名]旭村玉田

鹿島灘沿岸の台地上にあり、北は荒地あらじ村。江戸時代は旗本領で、元禄郷帳の村高は一四五石余。耕地が狭少なため、鰯漁への依存度が高かった。鰯漁は江戸中期頃に最盛期を迎え、隣村三村と組を編成して、幕府への鰯運上を負担した。明和六年(一七六九)の「玉田・荒地・沢尻・上釜四か村鰯漁運上直請につき小手形改書上帳」(石崎家文書)によれば、鰯運上金は四村で金一両三分とあり、同五年から四両に変更された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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