(上原兼善)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
琉球王国の国王。王尚永に世継ぎがなく,1589年迎えられて第二尚氏王朝7代目の王となった。1606年中国(明)皇帝の名において派遣された使節により冊封をうけた。おりしも日本との外交関係は危機的状況を迎えていたが,09年(慶長14)春,薩摩島津氏はついに3000の兵をもって琉球を侵略したが,琉球側には戦意がなく,ほとんど戦うことなく無条件降伏を余儀なくされた。その年尚寧は鹿児島に重臣とともに連行された(琉球征服,島津侵入事件)。翌年,駿府で徳川家康に,江戸で2代将軍秀忠に謁見し,鹿児島に戻って薩摩への忠誠を誓った後,2年半ぶりに故国の土を踏んだ。未曾有の国難をまねいたことを苦にし,傷心のまま57歳で死去。侵入事件をはさむその治世は,南海に独立王国として存在しつづけた琉球がやがて統一政権の形成にともなって日本の新秩序(幕藩体制)の一環に編成される転換点にあたる。琉球国内においては,その影響で社会的動揺がにわかに高まった不安の時期であった。死後,〈浦添(うらそえ)ようどれ〉に葬られた。
執筆者:高良 倉吉
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
薩摩(さつま)軍の侵略を被ったときの琉球(りゅうきゅう)国王。第二尚氏王朝6代尚永(しょうえい)には嗣子(しし)がなく、1589年、王族の一つ浦添按司(うらそえあんじ)家から迎えられて7代目の王となり、1606年、明(みん)皇帝神宗(しんそう)の派遣した夏子陽(かしよう)の手で冊封(さくほう)を受けた。しかし3年後の1609年、琉球支配の宿願を果たすべく兵3000を琉球に送った薩摩藩主島津家久(しまづいえひさ)により征服された(島津侵入事件)。尚寧は重臣ともども鹿児島に連行され、その後駿府(すんぷ)で徳川家康に、また江戸で2代将軍秀忠(ひでただ)に謁見したのち、薩摩の琉球支配の基本方針を受諾して2年後に帰国を許された。王国の前途多難に思いをはせつつ1620年9月19日死去。歴代国王の眠る玉御殿(たまうどぅん)(玉陵)にではなく、一族の眠る浦添ヨウドレの東室(とうしつ)(俗に尚寧王陵という)に葬られた。
[高良倉吉]
1564~1620.9.19
琉球王国の第二尚氏王朝の7代目の王(在位1589~1620)。神号は日賀末按司添(てだがすえあじそえ)。3代尚真王の玄孫にあたり,母は6代尚永王の妹。即位前は浦添(うらそえ)王子と称した。豊臣秀吉から朝鮮出兵の兵粮米などを強要されるが,豊臣政権とは距離をおき,朝鮮出兵の情報を明国へ通報し警戒を促すなど冊封体制下に琉球を位置づけ,1606年琉球国王に冊封された。鹿児島藩への服属要求を拒否しつづけたが,09年(慶長14)同藩の攻略をうけた。捕虜となり駿府の徳川家康,江戸の徳川秀忠に謁見させられ,2年後に帰国を許された。尚寧らの不在中鹿児島藩は検地を行い,11年奄美地域を除く沖縄諸島・先島諸島(宮古・八重山列島)約8万9000石を中山王領とする知行目録を与えた。以後琉球は鹿児島藩の領分(従属国)となる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…喜安入道蕃元と称した。泉州堺の出身で1600年(慶長5)琉球に渡り,時の尚寧王に茶道をもって仕えた。09年,薩摩島津氏3000の兵により琉球が征服されたとき,薩摩軍との講和の大任をおびて奔走し,捕虜として鹿児島に連行された尚寧王と行をともにした。…
…1609年(慶長14)薩摩軍3000余は戦意のうすい琉球に侵入しこれを征服した。時の王尚寧(しようねい)は臣下ともども薩摩に連行され,薩摩への忠誠を誓ったのち帰国を許された。これにより,独立の貿易国家として発展してきた琉球王国は新しい時勢を迎えることになった(琉球征服)。…
※「尚寧」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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