日本大百科全書(ニッポニカ) 「田中敦子」の意味・わかりやすい解説
田中敦子
たなかあつこ
(1932―2005)
コンセプチュアル・アーティスト。大阪に生まれる。1951年(昭和26)、京都市立美術大学に入学するが同年退学。大阪市立美術館付設美術研究所に通い、そこで知り合った金山明(1924―2006)のすすめで、54年に、金山、白髪(しらが)一雄、村上三郎らによるグループ「0(ゼロ)会」展に出品する。55年金山、白髪、村上とともに、吉原治良(じろう)率いる「具体美術協会」に参加する。54年制作の、服の芯に使う麻布を継ぎ合わせ、同じ数字の連続を描き、布の継ぎ目によって生じるずれにより時間的変化を表した作品、55年制作の、青い縁どりをした10メートル四方のピンクの人絹の布を、地面から30センチメートルの高さに貼り、日光を反射する様子を絵画に見立てた作品、2メートル間隔でつなげた20個のベルが、観客がスイッチを押すと、その音響を弱めながら順番に鳴り響く『無題(ベルの習作)』など実験的な作品を次々と発表する。それらは芸術の新しい形式を模索するものとして、吉原をはじめとする具体美術協会のメンバーによって高く評価された。
独創的なアーティストとしての田中の名声を高めたのが、1956年制作の『電気服』である。これは、直径1センチメートルほどのコードで頭まで覆って、ボディ・スーツのように組み立てて骨組みとし、そこに約100個の管球と90個の電球を取りつけたものだ。管球すべてと電球の半数が、濃淡の違う赤、緑、青、紫、黄色、橙(だいだい)などの9色にエナメル塗料で塗られ、色の配色に規則性が起こらないように接続された。そして、ギアを組み合わせた点滅器によって、点滅も故意に不規則になるよう仕掛けられた。
同作は1956年の第2回具体美術展で田中自身がまとって発表したのち、その後制作された2着の電気服とともに、57年に大阪産経会館で行われた展覧会「舞台を使用する具体美術」でふたたび発表されて評判をよんだ。『電気服』は国内でも多く取り上げられたが、こののち海外で高い評価を受ける。たとえば、フランスの美術批評家ミシェル・タピエMichel Tapié(1909―87)は田中を同時代の国際的に活躍する作家と比較しうるとし、大胆で高度な前衛性をみせる具体美術協会のなかでも卓越した才能をもつアーティストとした。
具体美術協会の評価の動きが高まった1980年代には、85~86年芦屋市民センター、国立国際美術館、イギリスのオックスフォード近代美術館などで回顧展が行われ、なかでも86年パリのポンピドー・センターにおける「前衛芸術の日本1910―1970」展は大規模なものであった。田中はそのために『電気服』を再制作した。美術批評家アルフレッド・パックマンAlfred Pacquementは、『電気服』を絵画的発想の独自の追求であると同時に「ミニマリズムとその先駆となるものの頂点」と評価した。
1993年のベネチア・ビエンナーレに『舞台服』が、94年のグッゲンハイム美術館ソーホー分館における「戦後日本の現代美術」展に『無題(「ベルの習作」)』や『電気服』が出品された。そしてロサンゼルス現代美術館やヨーロッパ2か所および東京都現代美術館を巡回した98~99年の「アクション――行為がアートになるとき」展に『電気服』が出品され、キュレーターのポール・シンメルPaul Schimmelにより、具体アートのなかでも「もっともメタフォリカルな豊かさをたたえた作品」として賞賛された。2001年(平成13)、芦屋市立美術博物館、静岡県立美術館において回顧展「田中敦子:未知の美の探求1954―2000」が開催された。
[松井みどり]
『Paul SchimmelLeap into the Void; Performance and the Object(in Out of Actions; between Performance and the Object, catalog, 1998, Thames and Hudson, New York)』▽『Alexandra MonroeTo Challenge the Midsummer Sun; The Gutai Group (in Japanese Art After 1945; Scream Against the Sky, catalog, 1994, Guggenheim Museum, New York)』▽『「田中敦子:未知の美の探求1954―2000」(カタログ。2001・田中敦子展実行委員会)』