田之口村
たのくちむら
[現在地名]長野市信更町田野口
東は赤田村、南は篠山続きで塩崎村・稲荷山村(現更埴市)、西は山野をもって灰原村・高野村、北は三水村・氷熊村と山野と耕地で境する。南向きの傾斜地で前面に聖川の水田地帯があり、その先は山林山嶺となっている。
古墳時代の大塚古墳がある。中世は坂城葛尾城主村上氏領。戦国時代武田晴信の支配に属し、のち上杉景勝の支配となる。慶長三年(一五九八)景勝の会津移封の後は、海津城主の領知であった。元和八年(一六二二)松代領となる。
慶長七年の川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)には「四百五拾四石九斗七升七合 田之口村」とある。
田之口村
たのくちむら
[現在地名]栃尾市田之口
西谷の村としては西谷川の最下流に位置する。東は吹谷村、南は西野俣村、西は一之貝村、北西は荷頃村。四囲を山に囲まれる。文明年間(一四六九―八七)の長尾・飯沼氏等知行検地帳(上杉家文書)に「田口」等六ヵ所が城次郎左衛門尉の知行地とみえる。元和六年(一六二〇)の長岡藩知行目録に田口村とみえ、高四六石八斗余。正保国絵図には田ノ口村とあり、高九九石余。
田之口村
たのくちむら
[現在地名]倉敷市児島田の口・児島田の口一―七丁目
上村・下村の東、仙随山(二六九・九メートル)の南麓に位置し、南は瀬戸内海に面する。田ノ浦ともいわれた。「備前記」「備陽記」には枝村として峠・小田ノ口を記す。正保郷帳では高七一〇石余。享保六年(一七二一)の田畠四三町八反余・塩浜六反一畝余、池一七、家数一四三・人数一千六〇、三端帆より五端帆まで船七(備陽記)。文化年間の「岡山藩領手鑑」によると高七一〇石余、直高九八九石余で池田和泉の給地、田二七町八反余・畑一五町七反余・塩浜一町五反余、ほかに開方・新開として二反二畝余、林・野山五三町余、池一八、樋三三、井戸一七、家数二四五(説教一)・人数一千四七四、社方一軒、牛一四一、紺屋七軒・酒屋四軒、木挽一〇・大工五、桶屋・鍛冶各三、左官一、船三七。
田之口村
たのくちむら
[現在地名]安心院町田ノ口
辻村・恒松村の南、新貝川流域にあり、中山谷の入口に位置する。西方は峠を越えて副村(現院内町)に通じ、南は中山村。近世の領主の変遷は古市村に同じ。地内の潰山は中山氏が嘉吉年間(一四四一―四四)に城を築いた地という。小倉藩元和人畜改帳では田口村とあり、高一七八石余、人数二四、百姓三(うち庄屋一)・名子一、牛六。
田之口村
たのくちむら
[現在地名]日高町田ノ口
蘇武岳山系の田ノ口谷にあり、羽尻村とは山を隔てて北に位置する。江戸時代の領主の変遷は奈佐路村に同じ。寛永一六年(一六三九)の知高帳によると高九二石余。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図でも同高。但馬国両代官所支配村々高帳(出石神社蔵)では高一三七石余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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