田屋城跡(読み)たやじようあと

日本歴史地名大系 「田屋城跡」の解説

田屋城跡
たやじようあと

[現在地名]向原町長田

三篠みささ川へ見坂みさか川が流れ込む地に南西から張出した山の上にあり、「高田郡社寺古城山由来記」は「高五十間、よこ廿間、城主内藤河内守、知行高四千石の由」と記す。山上に平壇が四つ、深さ九メートルの水のかれた廃井がある。

城主内藤氏は平安時代末期の厳島神社神主で、その頃高田郡七郷の地を相伝私領とした佐伯景弘一族とみられ、鎌倉初期に長田ながた地頭職を得る内藤為弘は、初め康弘といい、一時佐伯姓を称した。高田郡妻保垣めほがき高田原たかたばら(現甲田町)ならびに長田郷は平安時代末期から厳島神社領で、為弘はその荘官であったと思われるが、平氏滅亡ののち為弘は進んで関東御家人となり、建保四年(一二一六)には鎌倉幕府から正式にこれらの地の地頭職に補任された(「閥閲録」所収内藤次郎左衛門家文書)


田屋城跡
たやじようあと

[現在地名]八千代町土師

土師はじ北方、中土師の盆地を見下ろす丘陵の先端部にあり、足利尊氏より土師の地を与えられたと伝える中村氏の居城。「高田郡中聞書」に「たや城山、高さ二十間、横十間、中村孫右衛門殿、知行知不申」とある。城跡は尾根上に階段状に四段の郭が配置される。西方一七〇メートルの所に、中村氏のものと考えられる石積みの方形基壇をもつ五輪塔・宝篋印塔などの墳墓群があったが、昭和四八年(一九七三)土師ダム建設の際、城の頂部の一部を残して水没した。

「閥閲録」所収の中村孫右衛門家書上によると中村氏は新羅三郎義光四代の後裔で、源頼朝に属し軍功により駿河国地頭職に補された武田信義より出て、その四代武田弥八郎信貞のとき甲斐中村なかむら庄に住んだため、その子刑部大輔兼邦から中村姓を称した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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