長田郷(読み)ながたごう

日本歴史地名大系 「長田郷」の解説

長田郷
ながたごう

和名抄」東急本は「奈加多」の訓を付す。天福二年(一二三四)正月二〇日の度会広光処分状(光明寺文書)に権禰宜長光神主分の戸田として「壱段 長田郷秦十二月丸戸 在五条二奴良里四坪」とみえる。嘉元二年(一三〇四)四月日の尼西阿弥陀仏度会晴秀連署田地施入状写(光明寺古文書)には「飯野郡長田郷安養院田地事」とある。元亨元年(一三二一)八月二二日の飯野郡四火所里田地文書案(同文書)には「長田郷三条四火所里十一坪内」に某寺領二段が、康永三年(一三四四)の法楽寺文書紛失記(京都市田中忠三郎氏蔵文書)には「長田郷五条四鎌田里卅五坪東畔本一段」に同寺仏供料田二段が所在したとある。


長田郷
ながたごう

「和名抄」高山寺本・東急本ともに訓を欠く。「日本地理志料」は「奈加多」と読む。平城宮出土木簡に(表)「伊賀国伊賀郡長田郷」、(裏)「新木里石部道□長」とある。天喜四年(一〇五六)二月二三日付散位藤原実遠所領譲状案(東南院文書)の長田郷中に「教屋村」「神田村」「葦長村」がみえる。この所領は現上野市朝屋ちようや大野木おおのぎを中心とした当郷東部の所と考えられる。「三国地志」は今阿拝郡に属するとし、「日本地理志料」は長田郷長田・木興きこ・朝屋・大野木・法華ほつけ(現上野市)、島原郷大道おおどう中屋なかや河南かわみなみ中村なかむら(現阿山郡島ヶ原村)の諸村にあて、「大日本地名辞書」は明治二二年(一八八九)成立の長田村とする。


長田郷
ながたごう

「和名抄」所載の郷。同書高山寺本に「奈以多」、東急本に「奈加多」の訓がある。「日本書紀」神功皇后摂政元年二月条に、皇后が韓国から凱旋した際託宣によって事代主尊を長田国に祀ったとある。同様の記事が「住吉大社神代記」にもみえる。「延喜式」神名帳に載る八部郡長田神社がこれにあたる。大同元年(八〇六)の牒(新抄格勅符抄)によると同社に神封四一戸が充てられた。保安元年(一一二〇)頃のものとされる摂津国正税帳(九条家冊子本「中右記」裏文書)などに長田神戸三二烟とみえるのが、数は減少しているものの相当しよう。


長田郷
なかたごう

「和名抄」高山寺本は「ナカタ」と片仮名で訓を記載し、東急本は「奈加太」と訓を付す。長元三年(一〇三〇)の「交替実録帳」吾妻郡に「長田院」が記されている。郷域について「日本地理志料」は現利根とね新治にいはる村の赤谷あかや川と支流の西にし川の流域の各地にわたるとし、「大日本地名辞書」は現高山たかやま村と西の現中之条なかのじよう町東部の名久田なくた伊参いさま両地区に推定する。


長田郷
ながたごう

「和名抄」高山寺本所載の郷。東急本・古活字本は郷名を欠く。高山寺本に訓はないが、摂津国八部やたべ郡長田郷の訓「奈加多」(東急本)に従う。東急本・古活字本では養耆やぎ郷の次に浅間あさま郷が記されるが、同郷は高山寺本にはみえない。そのため、浅間郷はもと長田郷と称されたことがあり、両郷は郷域を等しくするとされる。


長田郷
ながたごう

「和名抄」諸本にみえる郷名。東急本に「奈加多」の訓がある。「遠江国風土記伝」は永田ながた村、「大日本地名辞書」は橋田はしだ大字永田付近に比定し、現浜松市和田わだ町周辺にあたる。


長田郷
ながたごう

「和名抄」所載の郷で、訓を欠く。「大日本地名辞書」に「石川の東には、現に中田ありて、中谷村の大字とす。本郷は、社川の山中、蓬田までわたれるにや、蓬田にも永田の大字あり」とある。


長田郷
ながたごう

「和名抄」所載の郷。東急本の訓は「奈加太」。「播磨国風土記」には長田里とあり、景行天皇印南別嬢の処に行幸の時、道辺に長い田を見たことから地名が生じたとする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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