由良庄(読み)ゆらのしよう

日本歴史地名大系 「由良庄」の解説

由良庄
ゆらのしよう

由良川流域に比定される京都蓮華王院の荘園。立荘の時期は不詳。「吾妻鏡」文治二年(一一八六)八月二六日条に「於蓮花王院領紀伊国由良庄、七条細工紀太構謀計濫妨之由、領家範季朝臣折紙并院宣到来之間、今日令下知給之云々」とみえ、この時期、本所は蓮華王院、領家は木工頭藤原範季であったこと、七条細工紀太なる者の濫妨のあったことが知られる。この濫妨に関する範季書状など三通が同日条に納められている。また同年九月二五日条に御使藤井則国言上状があり、藤三次郎吉助が由良庄を押領しようとしていたこと、またこの吉助の濫妨の背後に吉田中納言阿闍梨や、先の七条紀太なる者がいたことなどがわかる。なお史料中に「広由良御庄」とみえるが、由良庄が有田郡ひろ(現広川町)と隣接していることから合せて称されたものと思われる。

嘉禎二年(一二三六)四月五日付金剛三昧院別当荘厳坊僧都宛の葛山願生書状案(金剛三昧院文書)によれば、当時由良庄地頭職を葛山願生がもっていることが知られる。その経緯を同書状案は、将軍源実朝の近習であった葛山景倫が、承久元年(一二一九)実朝が暗殺されたのを機に出家し、願生と称して高野山に入り、実朝の母政子が、その資として紀伊国由良の地頭職を与えたとしている。


由良庄
ゆらのしよう

現由良一帯に比定される。平家一門の池大納言頼盛の所領の一つで、源平合戦後いったん没官されたが、寿永三年(一一八四)四月五日に源頼朝から頼盛に返還された(「源頼朝下文案」久我家文書)。その後鎌倉幕府によって領家職は禅林ぜんりん新熊野いまくまの(現京都市左京区若王子神社)に寄進され、貞応二年(一二二三)の淡路国大田文には同領として由良庄がみえる。田二〇町、畠、浦一所からなり、地頭は賀加兵衛佐であったが、承久の乱後に下総千葉氏の一族木内二郎(胤家)に替わった。その後領家雑掌大和民部大夫入道善阿と地頭木内氏の間で地頭名の未進や塩浜年貢納入など所務をめぐる相論が起こった。元応元年(一三一九)一二月二六日に和与が成立し、地頭職・領家職はともに関東御分であることから地頭得分を領家請所とし、万雑公事等を停止し、年六〇貫文を領家預所が沙汰し地頭方へ弁ずることとなった(「由良庄地頭代沙弥円性等連署和与状」若王子神社文書)

康永四年(一三四五)四月六日、足利尊氏によって当庄地頭職が禅林寺新熊野社に寄進され(「足利尊氏寄進状」若王子神社文書)、貞和二年(一三四六)には今川政義の子息幸福丸が惣地頭代官職を与えられた(同年九月三日「今川政義請文」同文書)


由良庄
ゆらのしよう

現氷上町北東部、現北油良きたゆら・南油良辺りに所在したと考えられる庄園。寿永二年(一一八三)九月日の丹波国司庁宣(東山御文庫記録)によれば、後白河院庁下文にしたがって「丹波国由良庄新庄」を京都賀茂社領とすることが下達されており、この時の成立と考えられる。翌三年四月二四日諸国の賀茂社領四二ヵ所に対する武士の狼藉停止が命じられており(「源頼朝下文案」賀茂別雷神社文書)、四二ヵ所の神領に丹波国では由良庄と私市きさいち(現京都府綾部市)が入っている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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