改訂新版 世界大百科事典 「町並み保存」の意味・わかりやすい解説
町並み保存 (まちなみほぞん)
古いたたずまいを残した建造物群を,周囲の環境と一体として保存すること。そのための行政措置や住民運動など,さまざまな活動を含めていう。
日本
日本においては,昭和30年代から40年代にかけて高度経済成長期を迎え,国土の再開発が進められ,全国各地に残っていた古い町並みが急速に破壊され,都市が個性を失った画一的な姿に変わるおそれが生じた。また町並みに近接してスケール,デザインともに不調和な巨大建築物,工作物が建設されるという事態も生じた。これを憂慮して,市や町で条例を定めて良好な環境を守ろうとする動きが現れてきた。1968年金沢市が条例を定めたのを皮切りとして,75年までに11の市・町においてこの種の条例が制定された。これらの条例は,いわば自然発生的に定められたものであったから,動機もまちまちであったが,大別すると(1)有識者が率先して運動した場合,(2)地域住民の合意により推進された場合,(3)市長が熱心に推進をはかった場合,(4)行政当局の努力が実った場合,などに分けられる。また条例の内容にも差があり,なかには自然環境の保護をねらったものもあった。しかし歴史的・伝統的環境を守ろうとする点では一致していた。
以上のような動向や,後述する世界各国での動きをふまえて,文化庁では75年,文化財保護法を改正して,町並み保存のための法制を整備した。すなわち,まず同法第1章総則のなかで文化財の定義を定めた第2条に,新たに〈周囲の環境と一体をなして歴史的風致を形成している伝統的な建造物群で価値の高いもの〉を〈伝統的建造物群〉と名づけて文化財の一種に位置づけるとともに,伝統的建造物群保存地区に関する規定をまとめて第5章の2とした。ここでは伝統的建造物群およびこれと一体をなしてその価値を形成している環境を保存するため〈伝統的建造物群保存地区〉を決定することになっている(同法第83条の2)。決定を行うのは市町村であって,その定め方は,都市計画法で指定された区域内にある場合には都市計画で定め,それ以外の場合は条例で定めることになっている。同時に市町村は,その地区の保存に必要な措置を定める条例を制定することになった(同条の3)。次にその地区がわが国にとって価値が特に高いと考えられるときは,市町村の申し出に基づいて,文部大臣がこれを〈重要伝統的建造物群保存地区〉として選定することができる(同条の4)。そして国は,この地区の建造物および環境を保存するために行われる管理,修理,修景または復旧について市町村が行う措置に対して,経費の一部を補助することができることになっている(同条の6)。
なお重要伝統的建造物群保存地区は,1985年5月現在,長野県南木曾町妻籠,高山市三町,京都市祇園新橋,倉敷市倉敷河畔など22地区である(2008年9月現在,83地区)。各地区は歴史的伝統の違いにより,町並みも異なっており,それぞれの特色を生かした保存計画が立てられている。
執筆者:伊藤 延男
西洋
ヨーロッパにおける町並み保存の理論と実践は,1960年代以降にめざましい進展をとげた。その根本にある考えは,文化遺産(文化財)の保存・継承と新しい都市開発とを有機的に組み合わせることによって,より豊かな生活環境をつくり上げようとする態度である。こうした考えが成立してくるまでには,いくつかの背景が存在した。
文化遺産の保存・継承について,ヨーロッパ諸国には長い伝統がある。歴史的記念物を保存する姿勢は18世紀から多くみられ,19世紀後半になると各国で文化財保護法が制定される。民間の保存団体として1895年にイギリスに設立されたナショナル・トラストは,邸宅建築をそこに営まれる生活を含めて保存しようとする考えを示したものとして画期的であった。20世紀に入り,1930年にフランスで制定された景観保護法では,記念物の周囲をも保護する考えが示され,43年には史的記念物monument historiqueの指定を受けた建築物の周囲500m以内の建物はすべて変更にあたって許可を要すると定められた。第2次大戦以前に,文化財保存の理念は,生活を含めた保存,周囲をも含めた広域保存の考えにまで達していた。第2次大戦後の動きは,二つの側面から出発する。その一つは多くの都市が直面した戦災復興計画であり,他は国際的な協力と情報交換の動きである。戦災復興計画は文化財修復の問題を抱え込んではいたが,何よりも都市改造計画として立案されていった。この一方で保存についての国際的合意と協力の動きも強まり,54年にはユネスコによって〈武力紛争の際の文化財保護のための条約〉がまとめられ,59年には保存修復技術の研修のためのユネスコ・ローマ・センター(文化財保存修復研究国際センター)が開設された。さらに64年にはイコモスICOMOS(国際記念物・遺跡会議)が設立され,保存問題の国際協力機構が成立した。同年イコモスは〈ベネチア憲章〉(記念物・遺跡の保護・復原のための国際憲章)をまとめて,現在にいたるまでの修復のガイドラインを与えた。この憲章の第7条に,〈ある記念物は,それが立証している歴史や,それが生まれた背景から切り離せない〉とあることは,文化遺産の保存から周囲の環境保存へのステップを示唆するものであった。
各国の法制にも変化がみられ,62年にはいわゆる〈マルロー法〉(フランスの歴史的・美的遺産の保護法を補足し,不動産修理を促進する1962年8月4日付法律)がフランスで制定され,67年にはシビック・アメニティーズ法がイギリスで制定されて,それぞれ都市計画と文化財保護を統一した法規のもとに推進することとなった。保存組織としても,56年にイタリア・ノストラ,57年にシビック・トラスト,64年にシビタス・ノストラがそれぞれイタリア,イギリス,フランスに作られ,広域的な情報交換に役立っている。ヨーロッパ全体の動きを統一した出来事としては,75年を〈ヨーロッパ建築遺産年〉と定めて行われた各種の行事があり,都市景観・遺産の保全に関する〈アムステルダム宣言〉がまとめられた。ユネスコでも76年〈ナイロビ勧告〉(歴史的地区の保全および現代的役割に関する勧告)をまとめている。
実際の保存計画も60年代末から各国で試みられるようになり,イギリスではバース,チェスター,チチェスター,ヨークの4都市にパイロット・プロジェクトを立て,イタリアでは72年にボローニャの歴史地区を再生して庶民住宅を供給する政策を開始した。従来の保存事業が,文化遺産と日常生活を別個の次元でとらえがちであったのに対して,文化遺産を継承することによって日常の生活環境を向上させるという姿勢が生じたのである。このほか,第2次大戦による被災を復旧するにあたって,ナチス・ドイツによる歴史の抹殺を復原によってくつがえそうとしたポーランドのワルシャワの例などあり,町並み保存の思想と実例は多様である。
執筆者:鈴木 博之
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報