日本歴史地名大系 「畳町」の解説 畳町たたみまち 山梨県:甲府市甲府城下畳町[現在地名]甲府市武田(たけだ)一丁目・朝日(あさひ)四丁目竪(たつ)町の北に続く町人地で、上府中二六町の一町。東の大工(だいく)町に並行する南北の通りで、北は元穴山(もとあなやま)町と久保(くぼ)町の間に交差するまでの小規模の町。町の中ほどを三ノ堀が横断している。町名は明暦三年(一六五七)の畳町役儀一札(県立図書館蔵)にみえ、畳職の居住に由来する。畳刺役引屋敷六軒(元禄六年「諸職人御役引屋敷改帳」同館蔵)と記される職人町で、城下役引七町の一つ。享和三年(一八〇三)の小間数書上帳(同館蔵)によれば東側四二間・西側四〇間半。寛文四年(一六六四)の当町の職人は畳刺四・大工一・紺屋一(「府中諸職人改帳」同館蔵)であったが、安永九年(一七八〇)には畳刺は皆無で、大工二・紺屋二・百姓二となっている(「御役引屋敷書上帳」同館蔵)。 畳町たたみちよう 東京都:中央区旧京橋区地区畳町[現在地名]中央区京橋二―三丁目狩野(かのう)屋敷・五郎兵衛(ごろべえ)町の南にあり、それぞれ両町に続く二本の東西の道に沿った両側町。北は南鍛冶(みなみかじ)町二丁目、南は京橋北紺屋(きようばしきたこんや)町・同白魚(しらうお)屋敷、東は南伝馬(みなみでんま)町三丁目・南伝馬町三丁目新道。国役町。八重洲(やえす)河岸(現千代田区)にあった人家を移して立てられた町で、町名は幕府の御畳師が居住したことに由来する(東京地理沿革誌)。寛文新板江戸絵図に「たゝミ丁」がみえる。「江戸惣鹿子名所大全」には畳屋の多くいる町としてあげられ、畳師として早川助右衛門と宗右衛門が記される。 畳町たたみまち 宮城県:仙台市仙台城下畳町[現在地名]仙台市柏木(かしわぎ)一丁目通(とおり)町のうち北鍛冶(きたかじ)町の北に続き、「封内風土記」によると北六番(きたろくばん)丁の四谷(よつや)堀ぎわまでの町。城下南部の若林(わかばやし)地区にも畳職人の住した畳屋丁がある。寛文九―一一年(一六六九―七一)の城下絵図では北六番丁と北七番丁の間に御畳刺衆とある。享保八年(一七二三)の軒数一九(仙台萩)、寛政(一七八九―一八〇一)頃の書上(「仙台市史」所収)に軒数一九、家数五八うち蔵三とあり、弘化二年(一八四五)の「奥陽名数」には北畳町と記され、町並長さ一町で、軒数三八とある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by