白山村
しらやまむら
三宮村の南に位置し、集落は手取川右岸の河岸段丘上にある。同村に鎮座する白山本宮の社前にあたり、「加賀志徴」の引く郷村名義抄は「白山村領之内に下白山之社」が存在したことを村名由来とする。正和元年(一三一二)と推定される白山水引神人沙汰進分注文案(三宮古記)に、白山本宮水引神人の所在地として「白山」とあり、文和三年(一三五四)七月一八日の水引神人和与状案(三宮古記)に当地の妙阿らの名がみえる。元和五年(一六一九)の三輪某書状(白山比
神社文書)に「白山宮尻村」と記されるが、「白山之記」に白山九所小神の一つ岩坂社の所在地としてみえる宮尻は当地北端部と推測される。「白山宮荘厳講中記録」の延文元年(一三五六)三月一九日条に「依大洪水、宮究路崩失」とみえる。貞治二年(一三六三)五月二一日本宮講衆仏眼坊の中間又次郎男が「萩ノ嶋」を通過するとき、金剣宮社官の河口又次郎に喧嘩を仕掛けられたため、本宮側は武装して宮尻の坂口まで発向した(同書)。
白山村
しらやまむら
[現在地名]秋田市上新城白山
新城川上流、新城沢の最奥、白山川の沢地にある小村。村名の初見は延元二年(一三三七)の北畠顕家国宣である。
<資料は省略されています>
平泉中尊寺衆徒の申状をうけた北畠顕家が、出羽国仙北の小野寺・平賀両氏に出羽国秋田郡内にある平泉惣別当領の実検を命じたもので、白山村は中尊寺領であった。
天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡御蔵入目録写(秋田家文書)によれば、太閤蔵入地である。
白山村
しらやまむら
[現在地名]東浦町白山
中持村の南、浦村の南西に位置し、ほぼ西から東へ山間部を蛇行しながら流れる浦川流域にある。村名は西端にある白山神社に由来するとされる(味地草)。大永三年(一五二三)六月一日、八日市淡路屋善兵衛尉光家から中嶋北新左衛門へ売渡された淡路上郡内の伊勢道者株のうちに、「志ら山ノ里一円」がある(「道者売券案」来田文書)。
白山村
しらやまむら
[現在地名]春日井市白山町
庄名村の東に隣し、南は高蔵寺村。「尾張国地名考」に「此村に白山の社あるより村名となりたることなるべし白山宮は円福寺の控にて文明十五年の記録に伊弉冊尊菊理媛命大名持神の三座を養老二年より配祭れるよし見えたり、養老二年といふ事信がたし」とある。慶長一三年(一六〇八)の検地帳写(高蔵寺町誌)によれば、田畑合計で四三町歩、それを八五人が所有している。最大の土地所有者は二町一反四畝で、一反未満の者が三四人である(春日井市史)。
白山神社からの村名を「しらやま」とよぶのは、加賀白山の総本山の白山比
神社によったものである。
白山村
はくさんむら
[現在地名]下仁田町白山
鏑川が蛇行しつつ南境から東境を流れ、東は馬山村、西は下仁田村、北は南蛇井村(現富岡市)と接する。近世はおおむね幕府領。天保一一年(一八四〇)の高九四石余、家数三二(「組合村高書上帳」桜井文書)。安永三年(一七七四)下仁田通船の石銭番人を当村清右衛門が勤めている(「通船引受人取計方請書」原文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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