白雲観(読み)はくうんかん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「白雲観」の意味・わかりやすい解説

白雲観
はくうんかん

中国北京(ペキン)に現存する全真教竜門派の叢林(そうりん)(総本山)。古く金代では天長観と称し、世宗の大定(1161~1189)の末年から全真教の開祖王嚞(おうてつ)(重陽(ちょうよう))や長春真人(ちょうしゅんしんじん)(真人丘長春(きゅうちょうしゅん))などの祖師たちと関係があった。元の太祖に親任された丘長春がこれに住して改修し、長春宮と改称。元の滅亡により廃絶していたが、丘長春の没後、掌教の職を継いだ尹志平(いんしへい)の居所の名にちなみ白雲観とよばれ、丘長春の墓を置いた。現在の白雲観は明(みん)代以降に位置を移して修築されたもので、十方叢林(じっぽうそうりん)として各地から集まる道士を収容し、戒壇(かいだん)を設け授戒をして資格を与えた。明の正統版道蔵(どうぞう)をもつ屈指の大道観として知られたが、革命後は兵営に転用されていたのを、1981年から修理に着手、1983年より一般にも開放されている。

[澤田瑞穂 2018年5月21日]

『小柳司氣太著『白雲観志――附東嶽廟志』(1934・東方文化学院東京研究所)』『吉岡義豊著『道教の研究』(1952・法蔵館)』

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改訂新版 世界大百科事典 「白雲観」の意味・わかりやすい解説

白雲観 (はくうんかん)
Bái yún guàn

中国の北京市西便門外にある道教の代表的な叢林で,全真教の根本道場。唐の玄宗が勅建した天長観のうち,幽州の地に建立されたものがその前身にあたり,遼・金時代の北方における代表的な道観であった。唐代,866年(咸通7)に重修され,金代 ,正隆年間(1156-60)に全焼したが,1174年(大定14)に再建された。大定年間末には王重陽弟子,王玉陽,長春真人(丘処機),劉長生ら全真教七真人が往来居住し,その根本道場となった。1202年(泰和2)に焼失翌年再建して太極宮の額を下賜され,元の太祖の19年(1224),名を長春宮と改め,明代,1394年(洪武27)に再建されて白雲観の名となった。さらに清代,1706年(康煕45),1756-65年(乾隆21-30)にも復興,修理されており,丘祖殿,老律堂,玉皇殿,四御殿,三清閣などを中心とする広大な建築群はいずれも清代以降の再建にかかる。天下孤本という明版《道蔵》を完備していることでも知られる。なお,現在,中国道教協会は白雲観に所在する。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「白雲観」の意味・わかりやすい解説

白雲観
はくうんかん
Bo-yun-guan

中国,道教の二大宗派の一つ全真教の本山。北京市西便門の西方約 1kmに所在する北方道教の代表的道観。唐の玄宗帝 (在位 712~756) の頃創立された天長観を起源とし,数次の改築を経て,元のチンギス・ハンの信任を得た長春真人の遺骸を葬った処順堂を中心にして建てられ,清代に現状に近い重修を行なっている。

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世界大百科事典(旧版)内の白雲観の言及

【道観】より

…唐代になると太清宮などとくに大きな道観を宮と称するようになった。全真教が成立した金以降は,天下の道観は北京の白雲観を総本山とする全真教系と,江西省の竜虎山を総本山とする天師道系とに大別されている。【麦谷 邦夫】。…

※「白雲観」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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