日本大百科全書(ニッポニカ) 「百団大戦」の意味・わかりやすい解説
百団大戦
ひゃくだんたいせん
1940年8~12月、八路軍(華北で活動した中国共産党正規軍)が華北の日本軍に対して行った抗日戦争中最大規模の作戦。104個連隊(「団」は連隊の意味)、約40万の兵士と20万の民衆が参加した。作戦の目標は、正太(せいたい)線(正定―太原)を重点に、華北の鉄道、道路、鉄道沿線と解放区内の日本軍拠点の破壊、および日本軍の「掃蕩(そうとう)」に対する反撃にあった。中国共産党側は、この作戦により、日本軍約2万を戦死傷させ、拠点約3000をつぶし、鉄道約500キロメートル、道路1500キロメートルを破壊するなど大きな戦果をあげた、としている。八路軍が、このような大作戦を敢行した背景には、日本の傀儡(かいらい)である汪兆銘(おうちょうめい)政権の成立、イギリスの援蒋(しょう)ルートであるビルマ・ルートと香港(ホンコン)境界の封鎖、蒋介石政権の対日妥協と中国共産党、解放区への攻撃、日本軍の解放区に対する締め付け強化など、国内外の厳しい情勢があった。さらに、日本軍が西安に侵攻し、延安と西南地区が分断されるのではと判断したことも、あえてこのような大作戦に出た要因の一つであった。作戦は確かに日本軍に大きな打撃を与え、中国の抗戦意識を大いに鼓舞した。しかし他方で、八路軍側の戦死傷者数が2万2000人と日本軍側のそれを上回ったことに示されるように、情勢判断、作戦指導などの面で少なからぬ問題を残した。日本軍は、この戦闘を契機に、中国共産党・八路軍対策に本格的に取り組むようになる。1941年に始まる傀儡華北政務委員会の「治安強化運動」や北支那(しな)方面軍の「晋察冀辺区粛正作戦」などは、その具体的な現れである。
[安井三吉]