8世紀の初頭、天武(てんむ)天皇の子および孫たちによって政治の実権が握られ、天皇一族の支配力が強かった時期の政治をさしていう。この間703年(大宝3)から745年(天平17)までは、太政官(だいじょうかん)を総括する官職として知太政官事(ちだいじょうかんじ)が置かれ、刑部(おさかべ)、穂積(ほづみ)、舎人(とねり)、鈴鹿王(すずかおう)の4親王が任命された。これらの4親王はいずれも天武天皇の子ないし孫である。また天武の皇子、高市(たけち)皇子の子である長屋王(ながやおう)は、724年(神亀1)の聖武(しょうむ)天皇即位とともに左大臣となり、政治の重要な地位を握ったが、これも当時の皇親政治の強さを示している。しかし729年(天平1)密告により長屋王が自殺させられると、この陰謀を企図した藤原氏の発言力が強化し、しだいに皇親の発言力は弱体化していった。
[鬼頭清明]
古代の天武・持統朝から奈良時代前半にかけて存在した,天皇と皇族を中心とした政治形態。壬申(じんしん)の乱に勝利して即位した天武天皇は大臣をおかず,持統朝では皇太子草壁皇子の死後,高市(たけち)皇子が太政大臣となるなど,天武天皇の皇子が中心となって政治を領導したと考えられている。文武朝に大宝律令が施行され,太政官の構成が整えられたが,703年(大宝3)刑部(おさかべ)親王が知太政官事(ちだいじょうかんじ)に任じられたのをはじめ,8世紀中葉まで皇親がこの地位をついだのは,貴族勢力を押さえる役割をもったと考えられている。また長屋王や皇族出身の橘諸兄(もろえ)が首班となったのも皇親勢力の政権とする見解がある。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…政治の方針は,太政大臣や左右大臣を置かず,有力豪族の勢力を排除して天皇に権力を集中し,律令体制を推進することにあった。天武は皇后や皇子・皇族の補佐によって政治を執ったので,天武の政治を皇親政治ともいう。その治世のあいだに,天智朝に定めた部曲および山林原野の収公,飛鳥浄御原律令の編纂,八色の姓(やくさのかばね)の制定,地方豪族の武器の収公と兵制の整備,官吏の登用・昇進の制および位階六十階の制定など,つぎつぎに新制を実施し,律令政治を軌道にのせた。…
※「皇親政治」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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