( 1 )宮中で天覧相撲が催された記録自体は、すでに「書紀‐皇極元年七月」に見える。「続日本紀」では、聖武天皇の天平六年及び一〇年の七月七日に天覧相撲が開催された記録があり、この頃には七月に行なうことが恒例化していたものと思われる。
( 2 )中古には、儀式としての制度諸式も整い、「内裏式」には「相撲式」として、七月七日及び八日の二日間にわたる式の次第が詳しく記されているが、この頃は必ずしも定期的なものではなかったらしい。
( 3 )院政期以降は武士勢力の台頭に伴う朝廷の力の衰微もあり、保安以後三〇年余り中断。その後、保元三年(一一五八)に再興するものの、承安四年(一一七四)を最後に廃絶した。