衛府(読み)えふ

精選版 日本国語大辞典 「衛府」の意味・読み・例文・類語

え‐ふ ヱ‥【衛府】

〘名〙
① 古代、宮城の護衛に当たった官司の総称。令制下では衛門府、左右衛士府、左右兵衛府五衛府であったが、その後数度の制度的改変を経て、平安初期に左右近衛府、左右衛門府、左右兵衛府の六衛府となった。衛府司。衛府官。
※続日本紀‐神亀四年(727)三月甲午「衛府人等。日夜宿衛闕庭、不輙離其府使他処
② ①に所属する官人。衛府司。衛府官。
※宇津保(970‐999頃)藤原の君「宰相にて左大弁かけつ。しばしあれば、ゑうかけたる中納言になりぬ」

えい‐ふ ヱイ‥【衛府】

〘名〙 ⇒えふ(衛府)

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デジタル大辞泉 「衛府」の意味・読み・例文・類語

え‐ふ〔ヱ‐〕【衛府】

古代、宮城の警備、行幸・行啓の供奉ぐぶなどに当たった官司。律令制下では衛門府えもんふ・左右衛士府えじふ・左右兵衛府ひょうえふの五衛府であったが、弘仁2年(811)以後、左右近衛府・左右衛門府・左右兵衛府の六衛府となった。衛府司。
衛府の役人。衛府司。

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改訂新版 世界大百科事典 「衛府」の意味・わかりやすい解説

衛府 (えふ)

古代,宮城・京師の守衛にあたった軍隊。中国では魏・晋のころから発達し,唐では天子十六衛,東宮十率府があった。日本では大化改新後,中国にならって制度が整備され,旧来の舎人(とねり)の伝統をうけつぐ兵衛,衛士をひきいる左右衛士府,衛士と旧来の靫負(ゆげい)の伝統をうけつぐ門部とからなる衛門府などがあいついで生まれ,701年(大宝1)までに衛門府,左右衛士府,左右兵衛府からなる令制の五衛府が成立した。五衛府の兵力の主体は農民出身の衛士であるが,宮内の宿直,閤門(内門)の守衛など重要な職務は,地方豪族,下級官人層出身の兵衛が担当した。ほかに行幸時の警固,京中夜間の巡邏,犯罪人の追捕等が衛府の職務とされた。奈良時代を通じて中衛府授刀衛外衛府などが新設され,765年(天平神護1)には授刀衛が近衛府と改称,従来の五衛府の上に近・中・外の3衛が置かれ,八衛府となった。これら3衛は,皇位継承をめぐる政界内部の抗争に対応して生まれたが,その兵力は地方豪族,下級官人層を基盤とする舎人であり,農民出身の衛士の逃亡・無力化に対応する意味をもになっていた。その後772年(宝亀3)外衛府を廃止,平安初期の807年(大同2)近衛府を左近衛府,中衛府を右近衛府と改称,翌年衛門府を廃止して左右衛士府に合併,811年(弘仁2)左右衛士府を左右衛門府と改称,ここに左右近衛,左右衛門,左右兵衛府からなる六衛府制が成立し,後代まで継続した。六衛府のうちでは,近衛が内裏閤門以内を守る重要な職務をにない,官人は勅使などとして活躍した。反面兵衛府の警備範囲は外に移り,衛門府とともに外衛と称された。10世紀のころ,畿内周辺では有力農民層が六衛府の舎人となって徭役・正税を拒否して国司に反抗し,また京内では諸衛舎人と院人・摂関家人との闘争愁訴が頻発したが,衛府の社会的基盤は縮小し,官司としての統一的な軍事・警察的機能はしだいに失われていった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「衛府」の意味・わかりやすい解説

衛府
えふ

奈良時代の親衛軍組織の総称。衛門府(えもんふ)、左右衛士府(えじふ)、左右兵衛府(ひょうえふ)の五つからなるので一般に五衛府という。しかし、大宝令(たいほうりょう)(701)下では四等官名、官位相当制などにおいて、衛門、衛士の三府と兵衛府は異なっており、五衛府それぞれの設置期、構成原理は同じではなかった。養老(ようろう)令(757施行)には、衛門府は諸門の禁衛、出入、礼儀、巡検隼人(はやと)、門籍(もんじゃく)、門牓(もんぼう)をつかさどり、衛士府は宮中の禁衛、車駕(しゃが)出入の警護、兵衛府は閤門(こうもん)、車駕の警護にあたるものであるというが、どのように分担していたのか検討が必要である。いちおうは、車駕出入における兵衛は敵との戦闘を衛士にまかせて天皇を直衛し、衛士は行幸の陣列の前後にあって索敵しつねに敵との戦闘に対応した武力であったと解される。諸門、宮中の守衛についても、外門(十二門)は衛門府、中門、庫蔵門、所部は衛門府と衛士府が共同、内門(閤門)は兵衛府がその守衛にあたっていたのであろう。また内門、中門、外門の夜間警備は衛門府衛士が当初その任についていた。衛府のうち、大宝律令以前に設置されたのは兵衛府だけで、衛門的な任務は宮守官が指揮し、大宝律令以降、農民徴発の衛士がしだいに制度化されていくなかで衛門府が成立し、最後に衛士府が成立し、それが左右に分化したのは8世紀の終わりごろであろう。708年(和銅1)初めて、兵部卿(ひょうぶきょう)、衛門督(えもんのかみ)、左衛士督、右衛士督、左兵衛率、右兵衛率が同時に任命された。衛府制の成立である。

[野田嶺志]

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百科事典マイペディア 「衛府」の意味・わかりやすい解説

衛府【えふ】

律令制で皇居・京中・行幸などの警備を担当した軍隊。大宝令では衛門・左右衛士(えじ)・左右兵衛(ひょうえ)の五衛府(ごえふ),のち近衛(このえ)・中衛(ちゅうえ)・外衛(がいえ)などを加える。811年に左右の近衛・兵衛・衛門の六衛府となって近世に及んだが,検非違使(けびいし)設置後は警察権を失い,武家政権成立後は有名無実。
→関連項目卯杖衛士衛府の太刀衛門府近衛府兵衛府兵部省

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「衛府」の意味・わかりやすい解説

衛府
えふ

奈良,平安時代に宮門の警備を司った役所。職員は諸門の警固,行幸時の供奉などを役目としていた。令制では衛門,左右衛士,左右兵衛の5府であるが,神亀5 (728) 年令外に中衛府,天平宝字3 (759) 年に授刀衛をおき,その後外衛府も設けた。しかし天平神護1 (765) 年にいたり,まず授刀衛を近衛府と改称。次いで宝亀3 (772) 年外衛府を廃し,大同2 (807) 年には近衛府を左近衛府,中衛府を右近衛府と改称。同3年衛門府を左右衛士府に統合,さらに弘仁2 (811) 年左右衛士府を左右衛門府と改称し,ここに6府となった。御所警衛のうち,内裏内郭が近衛府,中郭が兵衛府,外郭が衛門府の所管であった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「衛府」の解説

衛府
えふ

律令国家における宮都守衛の中央軍隊組織。大宝・養老令制では衛門府(えもんふ),左右衛士府(えじふ),左右兵衛府(ひょうえふ)の五衛府の体制であったが,707年(慶雲4)授刀舎人(たちはきのとねり)寮がおかれ,これが728年(神亀5)中衛府(ちゅうえふ)に発展,さらに授刀衛(じゅとうえい)(のち近衛府(このえふ)と改称)・外衛府(がいえふ)が新設され,一時八衛府体制となった。以後改称・統廃合をへて,811年(弘仁2)左右衛門府・左右兵衛府・左右近衛府の六衛府体制となり,後世まで存続した。

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世界大百科事典(旧版)内の衛府の言及

【軍制】より

…軍団兵士の一部は衛士(えじ)として中央の宮城・京師の警備にあたり,またおもに東国の兵士のなかから九州の辺防にあたる防人(さきもり)が遣わされた。宮城警備のためには衛門府・左右衛士府・左右兵衛府の五衛府が置かれ,衛門府では門部・衛士,衛士府では衛士,兵衛府では兵衛が武力の主体を形成した。このうち門部は旧来の伴の伝統をつぐもので,負名氏(なおいのうじ)と呼ばれる特定の氏族が代々宮城門の警衛にあたった。…

【夜警】より

…史料上に散見するところでは,夜警のために巡視することを行夜(ぎようや∥こうや),夜行,夜巡(よめぐり),夜廻(よまわり)などと表現している。令によれば町角ごとに鋪(ふ)(守道屋で,のち助鋪(こや∥ひたきや)ともいわれた)を立てて衛府が警備し,一般の夜間通行を禁じる規定があった。古代の京都では左右衛門府,近衛府などがその任に当たったらしい。…

※「衛府」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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