真観寺(読み)しんかんじ

日本歴史地名大系 「真観寺」の解説

真観寺
しんかんじ

[現在地名]八尾市北亀井町二丁目

臨済宗南禅寺派、山号万松山、本尊十一面観音。ほん町五丁目の常光じようこう寺と兄弟寺にあたる。寺伝によれば応永元年(一三九四)のちの河内守護畠山満家が伯父の京都南禅寺六八世大業徳基禅師を開基として創建した。徳基は南禅寺塔頭金地院の開基でもあり、当寺は金地院長老が代々住職を勤めた。満家が管領職にあった時、後花園天皇を迎え護国禅寺の寺号を下賜されたといわれる。満家は真観寺と号し、法名道瑞、境内に現存する十三重の石塔は彼の墓と伝える。創建当初は寺域八町四方、寺領一千石、大伽藍を構え、寺中塔頭としてとりん庵・梅船ばいせん庵・高臥こうが庵があり、寺外末寺安楽あんらく(跡地は郡川)南泉なんせん(跡地は現寝屋川市)安養あんよう寺・龍昌りゆうしよう(現南河内郡千早赤阪村)があった。林庵は永正二年(一五〇五)七月二七日、遊佐就盛から寺領安堵されている(「遊佐就盛下知状」寺蔵文書)ことからみて、最も重きをなしていたと思われる。


真観寺
しんかんじ

[現在地名]行田市小見

小見おみ東部に位置し、背後に小見真観寺古墳がある。真言宗智山派、慈雲山福聚院と号し、本尊は聖観音。開山滝憲鏡は仁治三年(一二四二)没といい(風土記稿)、その菩提を供養した板碑が残る。延文六年(一三六一)や康安二年(一三六二)銘の宝篋印塔がある。慶長九年(一六〇四)寺領一〇石を与えられた(「徳川家康朱印状写」同寺文書)。この頃まで本寺の長野ながの長久ちようきゆう寺でも小俣鶏足おまたけいそく(現栃木県足利市)の法流をくんでいて、寛永一〇年(一六三三)の関東真言宗新義本末寺帳にもそのようにあるが、寺蔵の同二一年の印信は醍醐寺報恩院流となっている。


真観寺
しんかんじ

[現在地名]伊予三島市富郷町寒川山 上長瀬

寒川山さんがわやまの北、銅山どうざん川の左岸にある。高野山真言宗、山号は豊岡山。本尊聖観世音菩薩。

寺伝によると行基が諸国遊歴の途次霊夢により創建したという。寛政九年(一七九七)の伊予国宇摩郡寒川山村明細帳に「真言宗真観寺 讃州豊田郡萩原村地蔵院末寺 寺四間梁ニ棟行拾二間 但シ境内之林 東西ヘ二拾五間南北ヘ拾八間 長瀬 観音堂一軒 是ハ真観寺本堂先年焼失仕候」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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