石坂洋次郎(読み)イシザカヨウジロウ

デジタル大辞泉 「石坂洋次郎」の意味・読み・例文・類語

いしざか‐ようじろう〔‐ヤウジラウ〕【石坂洋次郎】

[1900~1986]小説家青森の生まれ。教職のかたわら「若い人」を発表し、作家的地位を確立小説青い山脈」「石中先生行状記」など。

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精選版 日本国語大辞典 「石坂洋次郎」の意味・読み・例文・類語

いしざか‐ようじろう【石坂洋次郎】

  1. 小説家。青森県生まれ。慶大卒。第二次大戦前「若い人」「麦は死なず」の二長編で作家的地位を確立、その健全な常識に立った青春性、庶民性が広く受け入れられた。作品「青い山脈」「石中先生行状記」「陽のあたる坂道」など。明治三三~昭和六一年(一九〇〇‐八六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「石坂洋次郎」の意味・わかりやすい解説

石坂洋次郎
いしざかようじろう
(1900―1986)

小説家。明治33年1月15日(戸籍上は7月25日)青森県弘前(ひろさき)市に生まれる。旧制弘前中学校を経て1919年(大正8)慶応義塾大学文学部予科に入学。21年同郷の今井うらと結婚。25年大学を卒業、まもなく郷里の弘前高等女学校奉職。のち秋田県立横手高等女学校から県立横手中学校へ転任、通算13年間の教員生活を勤め、かたわら創作に専念する。処女作『海をみに行く』(1927)以後三田文学』をおもな発表舞台としたが、33年(昭和8)5、6月の『若い人』によって作家的地位を確立。この完成は「出来るだけ一般の人々を喜ばせる」(『短い感想』)ことを目的とする石坂文学の開花を意味した。『麦死なず』(1936)、『何処(いずこ)へ』(1941)を経て第二次世界大戦後は、『青い山脈』(1947)、『陽(ひ)のあたる坂道』(1956~57)、『光る海』(1963)等の新聞小説に成功、映像化された作品も多い。これら「青春もの」といわれる諸作品は、無遠慮な口をきくが、相手に毒を感じさせない人物を登場させ、露骨でありながら、不潔感を抱かせない性描写を含む、という点で共通する。『わが日わが夢』(1946)、『石中先生行状記』(1948~54)等の異色作もある。昭和61年10月7日没。

[森 英一]

『『石坂洋次郎文庫』全20巻(1966~67・新潮社)』『森英一著『石坂洋次郎の文学』(1981・創林社)』

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20世紀日本人名事典 「石坂洋次郎」の解説

石坂 洋次郎
イシザカ ヨウジロウ

昭和期の小説家



生年
明治33(1900)年1月25日(戸籍:7月25日)

没年
昭和61(1986)年10月7日

出生地
青森県弘前市代官町

学歴〔年〕
慶応義塾大学文学部国文科〔昭和14年〕卒

主な受賞名〔年〕
三田文学賞(第1回)〔昭和10年〕「若い人」,菊池寛賞(第14回)〔昭和41年〕

経歴
小学校の頃より同人雑誌などに小説を書く。弘前中、慶大を経て、大正14年青森県立弘前高女、15年秋田県立横手高女、のち横手中学などで教師を務める。この間、昭和2年「三田文学」に掲載された第1作「海をみに行く」で注目され、8年から同誌に連載された「若い人」が評判となり、10年第1回三田文学賞を受賞。つづいて11年に発表した「麦死なず」で作家としての地位を確立。「若い人」は12年に刊行されベストセラーとなるが、13年軍人誣告罪で告訴され、これを機に上京して、作家活動に専念。戦中は陸軍報道班としてフィリピンに赴いた。戦後は「青い山脈」や「石中先生行状記」で圧倒的な人気を得、流行作家となる。以後、「丘は花ざかり」「陽のあたる坂道」「あじさいの歌」「光る海」など話題作を次々と発表、その殆んどが映画化やドラマ化されヒットした。41年菊池寛賞受賞。三田文学会長を務めるなど、若手作家の面倒見もよく慕われていたが、46年うら夫人と死別してからは殆ど小説を書いていなかった。「石坂洋次郎文庫」(全20巻 新潮社)、「石坂洋次郎短編全集」(全3巻 講談社)がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「石坂洋次郎」の意味・わかりやすい解説

石坂洋次郎
いしざかようじろう

[生]1900.7.25. 弘前
[没]1986.10.7. 伊東
小説家。 1925年慶應義塾大学国文科卒業。郷里に帰り青森,秋田で女学校の教師を続けながら,『海をみに行く』 (1927) ,『炉辺夜話』 (27) ,『外交員』 (29) ,『金魚』 (33) などを発表して好評を得,青春小説の秀作として愛読される『若い人』 (33~37) ,および壊滅寸前の当時の左翼運動を批判して問題を投じた『麦死なず』 (36) により作家的地位を確立。第2次世界大戦後は,解放された素朴で健康な青春の賛歌を綴った『青い山脈』 (47) ,土着的なエロチシズムのあふれる地方庶民生活を描いた『石中先生行状記』 (48) で流行作家として復帰した。その後『丘は花ざかり』 (52) ,『山と川のある町』 (56) ,『陽 (ひ) のあたる坂道』 (56~57) ,『あじさいの歌』 (58~59) ,『河のほとり』 (61) などの新聞小説を執筆。『水で書かれた物語』 (65) では異常な近親相姦を扱い,主題の深刻さが注目された。

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百科事典マイペディア 「石坂洋次郎」の意味・わかりやすい解説

石坂洋次郎【いしざかようじろう】

小説家。弘前市生まれ。慶大文学部卒。弘前や横手の学校教師をしながら1933年から《三田文学》に連載した《若い人》で一躍流行作家になった。《麦死なず》《何処へ》《青い山脈》《石中先生行状記》など,独特のユーモアと健康で明るい庶民感覚のあふれた作品が多い。
→関連項目今井正三田派

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「石坂洋次郎」の解説

石坂洋次郎 いしざか-ようじろう

1900-1986 昭和時代の小説家。
明治33年1月25日生まれ。郷里青森県などでの教職時代に「若い人」「麦死なず」で文壇にみとめられる。昭和14年から東京で執筆に専念する。22年新聞小説「青い山脈」,翌年の「石中先生行状記」で国民的な人気をえた。昭和61年10月7日死去。86歳。慶大卒。作品はほかに「丘は花ざかり」「陽のあたる坂道」など。
【格言など】人は真理のみでは生きられない(「麦死なず」)

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367日誕生日大事典 「石坂洋次郎」の解説

石坂 洋次郎 (いしざか ようじろう)

生年月日:1900年7月25日
昭和時代の小説家
1986年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の石坂洋次郎の言及

【青い山脈】より

…石坂洋次郎(1900‐86)の長編小説。戦後最初の新聞連載小説で,1947年(昭和22),《朝日新聞》に連載,同年,新潮社刊。…

※「石坂洋次郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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