祖納村(読み)すねむら

日本歴史地名大系 「祖納村」の解説

祖納村
すねむら

[現在地名]竹富町西表いりおもて

西表いりむてい村北部に位置する同村の小村で村番所がある。「祖納節」に「西表の祖納嵩上なか むかし世ば 神の世ば 給ふられ 五日まり 十日越の夜雨ば 給ふられ(西表の祖納岳の上に昔の世を神の世をいただき、五日廻り十日越しの夜雨をいただき)」と謡われる。祖納すない(二九三・八メートル)の西方、祖納すない崎のある小半島の先端寄りの台地上を中心に発達した村で、台地上の集落を上の(ウイヌ)村、半島付根の低地の集落を下の(シムヌ)村とよんだ。上の村に阿立あだてい大立うふだてい宇嘉利うかり、下の村に下原すんばれー内道うちみち真山まやまの小集落があった。歌謡の「まるまぶんさんぶし」にもこれらの集落が謡われ、下原村は「そんばれぶし」、真山村は「まんか節」にも謡われる。大正初期頃よりしだいに上の村から下の村へ移住し、現在上の村には集落跡(上村遺跡)のみが残る。祖納崎の北海岸を西泊にしどうまりといい、与那国島・石垣島航路の主要港で与那国ゆのん津口とよばれた。正保国絵図には与那国島航路に「入表嶋いりおもてしま之内そなひ村より与那国嶋迄海上四拾八里、酉ノ方ニ当ル、此渡昼夜共ニ潮東ヘ落ル」、石垣島航路に「石墻いしかき嶋御崎泊より入表嶋之内そなひ村迄海上十一里」と記される。南海岸は前泊まいどうまりといい、沖合約三〇〇メートルにマルマ盆山ぼんさん島、その向うに外離ふかぱなり島・内離うちぱなり島を望む。前泊は祖納すね津口とよばれ、船着場近くの井戸の名をとってインがー津口ともよばれた。

上の村のヲハタケ根所にーどうくる(大竹御嶽)の由来によると、一四世紀後半ヲハタケの祖納堂という者が与那国島を攻略して配下に置き、洪武二三年(一三九〇)八重山の中山王府入貢時にこれを報告、のちに与那国島が王府の版図となる契機となったという(琉球国旧記)。ちなみにヲハタケ根所からは一四世紀の青磁・白磁とともに大量の鉄滓が出土している。祖納は東部の古見くんとともに西表いりおもて島を代表する古い村で、朝鮮の成宗八年(一四七七)与那国島に漂着した済州島民の見聞記(李朝実録)では、西表島を祖納の音によって「所乃是麼」(ソナイシマ・ソニシマか)とよんでいる。漂流民ら三人は祖納から上陸し、約五ヵ月の間おもに祖納に滞在したのであろう。その頃外離島野底辻ぬすくちじ慶来慶田城用緒げらいけだぐすくようちよが住んでいた。彼は石垣島平久保ぺーぶぐ(現石垣市)で人人を苦しめていた「かなじ」(加那按司)を滅ぼした後、外離島が手狭になったため祖納すない半島南端の「ふちこ」という岬に移住、三、四年後に北の「東石や」に屋敷を構え、祖納村の基礎を築いた。弘治一三年(一五〇〇)のオヤケアカハチ事件後、八重山が首里王府の支配下に入ると西表首里大屋子職を与えられたという(慶来慶田城由来記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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