祖谷山西分(読み)いややまにしぶん

日本歴史地名大系 「祖谷山西分」の解説

祖谷山西分
いややまにしぶん

[現在地名]西祖谷山村 徳善西とくぜんにし徳善北とくぜんきた徳善とくぜん西岡にしおか有瀬あるせ上吾橋かみあわし下吾橋しもあわし土日浦つちびうらえのき後山うしろやま尾井おいうちたに冥地みようじ重末しげすえ今久保いまくぼ中尾なかお閑定かんじよう善徳ぜんとくうち下名しもみよう坂瀬さかせ東山ひがしやま南山みなみやま東西岡ひがしにしおか後山向うしろやまむかい後山西うしろやまにし一宇いちうなど

吉野川右岸に位置。東端烏帽子えぼし(一六六九・九メートル)、中央北端に中津なかつ(一四四六・六メートル)、西部に国見くにみ(一四〇九メートル)などがあり、中央を祖谷川が北流する。東は祖谷山東分、北は三好みよし松尾まつお村・川崎かわさき(現池田町)、西の吉野川対岸は三好郡西宇にしう村・上名かみみよう村・下名村(現山城町)、南は土佐国長岡ながおか郡。祖谷山西・西祖谷・いや西などとも称され、「阿波志」などによれば久及ひさぎゆう片山かたやま地平ちたいら友行ともゆき田窪たのくぼ田内たのうち一宇大窪おおくぼ・閑定・中尾、今窪いまくぼ(現今久保)、重末・冥地・戸谷とのたに尾井内おいのうちみね・有瀬・徳善・西岡・後山・たいら中屋なかや鍛冶屋かじや・榎の二四名で構成されていた。市原本「祖谷山旧記」には今窪名がみえず、西にし名が載る。明治一二年(一八七九)西祖谷山村と称し、その際東祖谷山の小祖谷おいや名と大枝おおえだ名のうちしも名を編入。現徳善は、かつての田窪・大窪・地平・片山・久及・友行の六名の総称である。善徳の天満神社で旧暦六月二五日に行われる神代踊(国指定重要無形民俗文化財)は花笠姿で踊るところから笠踊とも、太鼓を使うことから太鼓踊ともいわれる。かつては西祖谷山各地で行われていた。善徳と中尾の間の祖谷川にはかずら橋が架かり、善徳橋と称される。長さ二七間三尺・幅五尺・高さ一三間で(明治四四年調)、シラクチカズラを使用。古くからあるもので、唯一残ったもの。日本三大奇橋の一とされ、祖谷の蔓橋として国指定重要有形民俗文化財。

〔閑定名〕

祖谷川左岸、祖谷山東分の今井いまい(現東祖谷山村)の西に位置。柑子生とも記された。武田本「祖谷山旧記」では高二一石余、御蔵入であった。冥加みようが浮橋があった(阿波志)八坂神社がある。

〔中尾名〕

閑定名の西に位置。武田本「祖谷山旧記」では高一三石余、御蔵入であった。五所神社が鎮座する。

〔今窪名〕

中尾名の西に位置。武田本「祖谷山旧記」では高二七石余、御蔵入であった。市原本「祖谷山旧記」にはみえない。今窪藤橋があり、長さ一二丈。八幡祠は宝永六年(一七〇九)の勧請という(阿波志)

〔冥地名〕

今窪名の北西に位置。名地とも記す。武田本「祖谷山旧記」では高一二石余、御蔵入であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報