近江商人は江州(ごうしゆう)商人ともいわれ,江戸時代には全国的な流通販売網を掌握し,徹底した利潤追求のために〈近江泥坊〉とも呼ばれたほどである。近江商人の起源については朝鮮からの渡来人説などの諸説があるが,多くは京都に近接し,東海・東山・北陸の3道の集中する蒲生(がもう)・神崎(かんざき)・愛知(えち)・坂田の4郡に出自し,その地域が京都への物資の集散に従事する地理的条件下にあることに共通性をもつ。鎌倉時代後半に姿を現し,室町時代初期から商業圏を確立してゆく延暦寺領近江国蒲生郡得珍保(とくちんのほ)の商人(保内(ほない)商人ともいう)は,荘園のなかでは農業生産に恵まれない農民が近江・伊勢の国境の鈴鹿山脈の八風(はつぷう)街道,千草街道の両街道での山越商業に従事したものである。保内商人は延暦寺や守護六角氏から排他的独占権(座権)を認定された。独占権の対象になる商品としては麻苧(あさのお),紙,陶磁器,塩,曲物(わげもの),油草,若布(わかめ),鳥,海苔(のり),荒布(あらめ),魚,伊勢布があげられる。保内商人は搬送手段の牛馬を独占的に売買する伯楽座(ばくろうざ)を維持し,他商人より商品運送により有利な立場を確保していた。また足子(あしこ)という従属的商人を配下におき,延暦寺や守護の保護を得て機動的な商業活動をおこなった。伊勢山越商人は保内商人,蒲生郡石塔商人,神崎郡小幡商人,愛知郡沓掛商人で編成され,四本(しほん)商人といわれたが,四本の内部では対立が継起していた。室町時代末期,保内商人は琵琶湖の東の小幡・八坂(はつさか)・薩摩・田中江,湖西の高島南市の五ヵ所のいわゆる五ヵ商人を相手に,湖西の今津から若狭小浜に至る九里半街道の商品搬送をめぐって訴論を繰り返した。これは室町時代前期の市座の専売権の独占の問題から,後期には街道における特定商品の輸送権の独占へと,中世の座商業が変質していることを示している。
戦国時代末期,近江の商人は安土(あづち),八幡(はちまん),日野,今津,堅田,大津,坂本に集中していた。保内商人の終焉は1577年(天正5),織田信長が安土山下町に触れ出した掟の中で,近江国中の馬売買を安土に限定し,保内商人の伯楽座の権利が奪われたときで,このような商農分離政策によって,得珍保は完全な農村に戻った。八幡商人は海外渡航,貿易を試みたが,鎖国令によって中止され,行商から大坂・京都へ進出して大店舗を構えるに至った。近江商人の活動のうち,特筆すべきは蒲生郡日野商人が関東地方に醸造業を興したこと,蝦夷松前藩への大名貸から漁場を請け負い(場所請負),南千島に進出し,水産物の流通に寄与したことである。金融については大名貸が顕著で,五箇荘(ごかのしよう)商人松居氏が彦根藩など8藩に,八幡商人梅村氏は福井藩など十数藩へ数十万両,日野商人中井氏は仙台藩に12万5000両を貸し付けている。近江商人の経営は本家と出店とを分離して独立採算制をとり,丁稚(でつち)制度の中で鍛えられた手代・番頭を経営に当たらせ,本家は奉公人に別家・分家の創設で報いた。商人は独自の家訓・家憲をもち,経営方法と商業倫理を商家全体におよぼしたが,家法に共通するのは質素,倹約という禁欲主義の徹底と,正直という商人道徳と,利潤追求の抑制である。近現代日本の有名商社のうち,近江商人の系譜をひくものが多いのも,近江商人の経営が現代に適合していることを示している。
執筆者:仲村 研
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江戸時代に、江戸・大坂・京都をはじめ各地に店舗を構え、商業界に大きな勢力を有した近江出身の商人をさした呼称。近江は、京都から北陸・東国に通じる交通上の要地にあたり、早く鎌倉時代から商人の活動がみられ、室町時代になると市(いち)、座、行商による商業が発達した。なかでも蒲生(がもう)、神崎(かんざき)、愛知(えち)の湖東三郡の商人の行動は活発で、彼らは集団で隊商を組み、駄馬を引き、または荷を背負って、美濃(みの)、伊勢(いせ)、若狭(わかさ)、越前(えちぜん)方面と京都を結んで行商して歩いた。江戸時代に入ると近江商人の商域は全国に拡大し、その取り扱い商品は近江産の麻布、蚊帳(かや)、畳表から始まり、茶、繰綿(くりわた)、木綿太物(もめんふともの)、紅花(べにばな)、生糸、漆器、薬など営業先各地の各種物産に及んだ。彼らの商業の形態は、まず行商に始まり、市場の開拓、資本の蓄積ができると要地に出店を開設した。出店の開設とともに店舗営業に移るものもあり、また出店を基点に周辺に行商圏を拡大するものもあった。しかし大商人になると、結局は出店を店舗とし、各地に設けた店舗網の間に産物を回送する「産物廻(まわ)し」の商法によって大きな利益をあげた。このように行商は近江商人の特色であり、しかも近世では個人行商から始めて産をなすものが多かったので、俗に「千両天秤(てんびん)」と称した。商業によって蓄積した資本は質屋、金貸しなど金融業にも回され、近江出身地の本店や、江戸の日本橋、大坂の本町、京都の三条通などに店舗を構えた大商人には大名貸しを行うものも多かった。また産業開発においても、日野商人が関東各地に酒、しょうゆなどの醸造業をおこし、あるいは八幡(はちまん)商人、柳川、薩摩(さつま)の両浜商人が蝦夷(えぞ)地(北海道)に進出して漁場の開発にあたったりした。
[村井益男]
おもに江戸時代,全国的にめざましく活躍した近江国出身商人およびその商法や性格を含めていう。とくに蒲生・神崎・愛知(えち)の湖東3郡の出身者が多い。この地方は古来水陸交通の要地として市が栄え,中世は市座を結んで隣接諸国へ隊商を組んで往来した。近世には活動領域も全国に広がり,鎖国前は朱印船貿易にも進出した。天秤棒による持下り商いから,しだいに三都をはじめ要地に設けた出店間の産物廻しにより富を蓄え,蓄積した資金を金融業・醸造業などによって増殖した。商家経営には共同企業,複式簿記,退職金,内部預金制度など最も進んだ合理的経営法を採用。西川産業・外与・ツカモト・稲西・チョーギン・伊藤忠・丸紅・市田・コスギなどは現存の近江商人系商社。
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…中世,とくに近世,近江商人とならんで江戸・大坂などで活躍した伊勢松坂等出身の商人。江戸時代〈江戸に多きものは伊勢屋,稲荷に犬の糞〉といわれるほど伊勢出身の商人が多く,その商業活動が目覚ましかったが,それは中世における伊勢商人の台頭や活躍と無関係ではなかった。…
…都と東国を結ぶ交通路では,東海道より中山道のほうが発達し,宿駅も整備された。東海道と中山道を結ぶ千草街道,八風(はつぷう)街道も,伊勢に赴く近江商人らに利用され,北国へは西近江路が通じていた。琵琶湖の湖上交通も盛んで,堅田の地侍は回送,造船,漁業の特権を握っていた。…
…滋賀県(近江)と三重県(伊勢)北部を結ぶ鈴鹿山脈越えの街道。〈千種越え〉ともいい,中世には約6km北方の八風(はつぷう)街道と並んで,近江商人の伊勢路へ出る重要な通商交通路であった。近江八幡や八日市方面から,瓜生津(うりうづ)を経て甲津畑(かづはた)に至り,それから藤切川を川沿いにさかのぼる山路となる。…
…また八幡浦は近世の湖上交通の要所で,大津・堅田とならび湖上三親浦と称され,今日も残る堀割(運河)によって町の商工業活動が展開した。1647年(正保4)八幡神社に渡海船額を奉納して知られる海外進出の西村太郎右衛門,近世初期松前の漁場を開いた岡田八十次,松前藩の御用商人西川伝右衛門,元和年間(1615‐24)江戸日本橋に開店した西川甚五郎,西川利右衛門に代表される商人のほか,大坂,京,名古屋等に進出する商人たちは,近江商人の典型であった。元禄~享保年間(1688‐1736)の戸数は1500を数え,諸商人が過半という様子であった。…
※「近江商人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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