日本歴史地名大系 「福山城跡」の解説
福山城跡
ふくやまじようあと
〔福山館〕
松前藩初代松前慶広は慶長五年(一六〇〇)海に面した福山の台地で新城築城に着手、六年後の同一一年に完成した。「福山秘府」や「松前年々記」には福山城とあるが、正式には陣屋または館である。創建当初の規模はわからないが、元和五年(一六一九)には
寛文九年(一六六九)に始まるシャクシャイン蜂起の際、アイヌの攻撃に対し急遽備えを固めた。「狄蜂起集書」には当時の福山館の概要が記されている。
この記事によれば、東は
福山城跡
ふくやまじようあと
元和五年(一六一九)水野勝成が備後国一〇万石に封ぜられ、一国一城の制に従い新しく城地を定め、縄張りを行って築城。戦国以後の築城史上最後の築城となったもので、従来の長をとり、最も完成した城郭建築とされる。正式名称は
築城の土木工事は元和六年末にはほぼ完成し、いよいよ建築にかかる状態で同年一二月に普請大成の報告が幕府に出され、将軍秀忠から「就其地普請出来、令満息、使者並銀子百枚、小袖到来、喜覚候」という黒印状(「徳川実紀」所引)がきている。
福山城跡
ふくやまじようあと
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報