穂北郷(読み)ほきたごう

日本歴史地名大系 「穂北郷」の解説

穂北郷
ほきたごう

現在の西都市穂北を遺称地とし、同所や周辺の南方みなみかた童子丸どうじまるを含む一帯に比定される中世の郷。古代の児湯こゆ郡穂北郷(和名抄)を継承する。八条女院領国富くどみ庄寄郡のうちで、同庄二一ヵ郷のうち赤井あかい(大淀川)の北にあった一〇ヵ郷の一つ。文治三年(一一八七)九月日の日向国留守所下文(西福寺文書)に「穂北郷」とみえ、僧覚金は郷内の字大田の一町と字荒蒔田の五反一二〇歩の八幡宮(福野八幡宮、現三宅神社)長日仁王講田の年貢を立用するよう命じられている。建久図田帳では国富庄寄郡一二〇町の一ヵ所として「穂北郷七十丁」とみえ、児湯郡のうちで地頭は在国司職や多くの地頭職をもつ土持信綱(宣綱)。なお当郷郡司職は信綱に在国司職を譲った日下部盛平の舎兄盛俊から右盛・久延・盛永・助盛へと相伝されたという(「日下部姓郡司系図」郡司信介家文書、「日下部姓金丸系図」金丸登家文書、「日下部湯浅系図」湯浅正敏家文書)。建仁二年(一二〇二)三月七日、覚金は大坪(前掲下文にみえる大田と同一の地か)と荒蒔田の仁王講田と郷内字波木の御前講田五反を嫡子力寿に譲り、八幡宮の神官と日向国在庁らから安堵を受けている(「僧覚金譲状」西福寺文書)

正応元年(一二八八)と推定される島津庄庄官等言上状(旧記雑録)によれば、嘉禄三年(一二二七)の造宇佐宮用途の日向国役を多くの庄園が懈怠、日向の守護が使者を派遣して事情をただしたところ、次のような注進があった。八条女院領の当郷や鹿野田かのだ郷・国富庄は御教書が直接出されて免除され、島津本庄は、禅定殿下(近衛基通)政所下文を帯して役を勤めなかったのであり、沙汰人の怠慢ではないというのである。嘉元二年(一三〇四)一月一六日尼志阿弥陀仏は餓死する者が出るほどの飢饉のなか、自分を養ってくれた下山島津しもやましまづの新納大夫(平行友)とその妻に大坪の福野八幡宮の神田三反半を譲り、二人の死後は孫の万寿丸に引渡すよう定めた(「尼志阿弥陀仏田地譲状」大光寺文書)。さらに四月一八日今度は荒蒔田を新納大夫に永代譲与している(「尼志阿弥陀仏田地譲状」同文書)。飢饉は翌三年になっても続いていたが、同年三月一五日比丘尼菩薩房三位殿の母は郷内「阿佐伽原」にある福野八幡宮仁王講料田六反半(大坪一町の残り)を五貫二〇〇文で新納行友に永代売渡している(「尼菩薩房三位殿母売券」西福寺文書)


穂北郷
ほきたごう

和名抄」所載の郷。同書は諸本とも訓を欠く。穂北の語義について、「太宰管内志」は「祈田」(ホギタ)の意とするが、「日本地理志料」は「寿田」(ホギタ)に由来するとの説に疑義を示し、「千穂北郷」として当郷は高千穂の北麓にあるとする。「大日本地名辞書」「日向国史」ともに上穂北村(現西都市)に比定する。現在の地名との一致から現西都市穂北を中心とする地域に比定できる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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