穴穂部 (あなほべ)
日本古代に大和朝廷によって設けられた名代(なしろ)の一つ。《日本書紀》では,雄略天皇のとき,兄の穴穂皇子(安康天皇)のために設定したという。皇子の宮は穴穂宮であって,この宮の経営のため,宮号を冠して設定された部民であろう。《正倉院文書》のなかに現存する721年(養老5)の〈下総国葛飾郡大嶋郷戸籍〉に,孔王部(あなほべ)を姓とするものが546人にも上り,一郷全体を覆っている。これは,5世紀代に,東国に設けられた名代が,族長のもとの共同体を分割せず,そのまま部民に編成し,族長を介して,ミツギ(調),エタチ(役)を貢納させた古い体制をのこしているものと思われる。中央に穴穂部造(みやつこ),穴穂部首(おびと)などの伴造(とものみやつこ)がおり,この名代を管理していたのであろうが,詳細はわからない。近江に穴太(あのう),穴太村主(あのうのすぐり)などの氏姓分布がみられるのも,これと関係があるかもしれない。
→名代・子代
執筆者:平野 邦雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
穴穂部
あなほべ
古代の部(べ)の一種。孔王部、穴太部にもつくる。雄略(ゆうりゃく)紀19年3月条に「詔置穴穂部」とあり、穴穂天皇(安康(あんこう)天皇)のために設けられた部と解されている。721年(養老5)の「下総(しもうさ)国葛飾(かつしか)郡大嶋(おおしま)郷戸籍」には546名という大量の孔王部の名が記され、5世紀後半の大和(やまと)王権の東国支配のあり方を示す好例とされる。しかし近年、大化前代に無姓の農民が広く存在し、7世紀後半の庚午年籍(こうごねんじゃく)などの定姓作業により初めて姓を与えられた可能性が指摘されており、前述の定説にも再検討の必要があろう。
[加藤謙吉]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
穴穂部
あなほべ
孔王部・穴太部とも。穴穂天皇(安康天皇,倭王興)の名代(なしろ)とする説が有力。「日本書紀」雄略19年3月条に設置の伝承がある。正倉院文書の「養老五年(721)下総国葛飾郡大島郷戸籍」には数百人の孔王部姓がみえる。倭王武の上表文に「東は毛人を征すること五十五国」とあるように,5世紀に大和朝廷の経略が南関東に及んだとき,数カ村の人々を一括して部民としたが,大島郷戸籍の人々はその子孫であろうといわれる。天武紀にみえる穴穂部造(みやつこ)に管掌されたか。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
世界大百科事典(旧版)内の穴穂部の言及
【名代・子代】より
…《古事記》《日本書紀》では,〈子代〉を〈子〉がないため,その〈代りに〉置いたものとするが,〈代(しろ)〉とは名目あるものの実体・客体をさすことばで,〈子のために〉設定されたものとする方がよく,この点では宮の名を負う名代もおなじであろう。 記紀の伝承をみると,品遅部(ほむちべ)=垂仁天皇皇子誉津別(ほむつわけ)命,伊登志部(いとしべ)=垂仁天皇皇子伊登志別(いとしわけ)王,武部(たけるべ)=景行天皇皇子日本武(やまとたける)尊,葛城部(かつらぎべ)=仁徳天皇皇后磐之媛(いわのひめ)(葛城氏出身),軽部(かるべ)=允恭天皇太子木梨軽(きなしかる)皇子,刑部(おさかべ)=允恭天皇皇后忍坂大中姫(おさかおおなかつひめ),[穴穂部](孔王部)(あなほべ)=允恭天皇皇子穴穂(あなほ)皇子などの例が記録される。これにつづく時代に,長谷部(はせべ)=雄略天皇(大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ),泊瀬朝倉(はつせのあさくら)宮),[白髪部](しらがべ)=清寧天皇(白髪大倭根子(しらがのおおやまとねこ)),勾部(まがりべ)=安閑天皇(勾金橋(まがりのかなはし)宮),檜隈部(ひのくまべ)=宣化天皇(檜隈廬入野(ひのくまのいほりの)宮),金刺部(かなさしべ)=欽明天皇(磯城嶋金刺(しきしまのかなさし)宮),他田部(おさだべ)=敏達天皇(訳語田幸玉(おさだのさきたま)宮)などが記録される。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」