立川(読み)タテカワ

デジタル大辞泉 「立川」の意味・読み・例文・類語

たてかわ〔たてかは〕【立川】

姓氏の一。
[補説]「立川」姓の人物
立川焉馬たてかわえんば
立川談志たてかわだんし

たちかわ〔たちかは〕【立川】

東京都中西部の市。旧陸軍の飛行場があったが、第二次大戦後、米軍が進駐し、昭和52年(1977)返還された。現在、自衛隊の基地と昭和記念公園がある。人口18.0万(2010)。

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精選版 日本国語大辞典 「立川」の意味・読み・例文・類語

たちかわたちかは【立川】

  1. 東京都中西部の地名。中世、この地に居住した武蔵七党の一つ、西党日奉(ひまつり)氏の一族が、立川(立河)氏を称したのが地名の起こり。明治二二年(一八八九甲武鉄道(現在の中央線)が開通。大正一一年(一九二二)以後旧日本陸軍の飛行連隊や軍関係施設が置かれ、軍都として発展した。第二次世界大戦後はアメリカ軍の基地の町となったが、基地は昭和五二年(一九七七)全面返還された。また、中央線、青梅(おうめ)線、南武線のほか、多摩都市モノレールが通じる交通の要地。八王子と並ぶ三多摩地方の商業中心地。北部の砂川地区は基地反対闘争で知られる。昭和一五年(一九四〇)市制。

たてかわたてかは【立川】

  1. 姓氏の一つ。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「立川」の意味・わかりやすい解説

立川(市)
たちかわ

東京都西部、多摩(たま)地方の中心都市。1940年(昭和15)市制施行。1963年(昭和38)砂川(すながわ)町を編入。平安末期から鎌倉時代にかけて、武蔵七党(むさししちとう)の一つ西党日奉(ひまつり)氏の一族が立河氏を称し、それが地名に現れる始めである。その居城跡は立川駅の南約1キロメートル、柴崎(しばざき)町の普済寺(ふさいじ)という。市域の南端に多摩川が流れ、左岸は沖積地。市域の大部分武蔵野台地が占めるが、台地は武蔵野面と、それより一段低い立川面からなり、中心市街地は立川面に立地する。JR中央・青梅(おうめ)・南武の諸線が集中し、交通の中心をなす。北端近くに西武鉄道拝島(はいじま)線が通じる。1998年(平成10)立川北―上北台間に多摩都市モノレールが開通、2000年多摩センター―立川北間も開業した。

 奥多摩街道が南端を通り、柴崎町は江戸時代、日野との間の多摩川の渡船場であった。北部の砂川地区は江戸時代初期の新田開発によって生まれた集落で、五日市(いつかいち)街道沿いに西の一番から東の十番まで防風林ケヤキに囲まれた集落が形成され、玉川上水の砂川分水が街道の北に引かれた。立川駅は1889年(明治22)JR中央線の前身甲武(こうぶ)鉄道開通に伴い開設され、ついで1922年(大正11)旧陸軍飛行連隊が埼玉県所沢から移駐するに至って、立川は軍部、交通の中心として発展した。飛行連隊跡は第二次世界大戦後アメリカ軍に進駐され、市は基地の町として知られ、飛行場の拡張をめぐって砂川では反対闘争が続いた(1955~1957年、砂川事件)。

 1977年(昭和52)基地が全面返還され、一部自衛隊が使用しているほか、都市の再開発地として昭和記念公園(国営)が建設され(1983年一部開園)、さらに立川駅北口に続く地区に「ファーレ立川」(1994年完成)など業務用高層ビルが建設された。自動車部品、航空機、情報関連などの工業もみられるが、住宅地化が進むなかで新たな工場立地はむずかしい。ウドなどの野菜や植木生産の農業も行われている。普済寺の中庭にある六面石幢(せきとう)の仏塔は国宝、諏訪(すわ)神社の獅子舞(ししまい)は元禄(げんろく)年間(1688~1704)に始まる古いもの。昭和記念公園近くに文部科学省の大学共同利用機関である国文学研究資料館がある。駅北口は、若山牧水(ぼくすい)の歌碑のある広場を囲んで大型店舗が建ち並び、多摩地方のショッピングセンターとなっている。面積24.36平方キロメートル、人口18万3581(2020)。

[沢田 清]

『『立川市史』上下(1968、1969・立川市)』



立川(山形県)
たちかわ

山形県北西部、東田川郡にあった旧町名(立川町(まち))。現在は庄内(しょうない)町の中部から南部を占める地域。旧立川町は、1954年(昭和29)狩川(かりかわ)町と立谷沢(たちやざわ)、清川(きよかわ)の2村が合併して成立。2005年(平成17)余目町(あまるめまち)と合併して、庄内町となった。北部は最上(もがみ)川が最上峡から出て形成した庄内平野の一部を占め、南部は月山(がっさん)北麓(ほくろく)の立谷沢川の河谷が開けるが、地域の大部分は山地が占める。稲作中心の農業地域。JR陸羽西線、国道47号、345号が通じる。春から秋にかけて最上峡から吹き出す強風の「清川ダシ」によって、しばしば農作物に被害を受けてきたが、近年はこれを利用した風力発電への実用化が行われている。中心地の狩川は北楯大堰(きただておおぜき)を開削した最上義光(よしあき)の部将北楯大学利長の居城地で、庄内平野東部の商業地。最上峡出口に位置する清川は最上川舟運の要衝地で関所が置かれ、河岸として発達した。幕末の志士清河八郎の生誕地で記念館がある。

[中川 重]

『『立川町史』上下(2000~2004・立川町)』


立川(高知県)
たじかわ

高知県北東部、長岡郡大豊(おおとよ)町の一地区。立川川に沿い、立川上名(かみみょう)、立川下名(しもみょう)からなる。古代、南海道の丹治川駅(たじかわえき)はこの地に比定される。江戸期には土佐街道が通じ、伊予(愛媛)国境に近く、上名、下名に番所が置かれた。下名の旧立川番所書院は土佐藩主の宿泊地と伝えられ国指定重要文化財。現在は高知自動車道が通過し、立川パーキングエリアが設置されている。

[正木久仁]

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日本歴史地名大系 「立川」の解説

立川
たちかわ

永禄四年(一五六一)の番帳の三番に「立川之禰宜」とあり、同禰宜は熊野堂くまのどうの熊野権現神主のことで、府中八幡神社への勤番を命じられている。元亀三年(一五七二)一二月二二日石原四郎右衛門尉は武田氏から遠江国三方原合戦の戦功により立川の内で一〇貫文が宛行われているが(「武田家感状」辻文書)、この史料は検討の余地がある。武田氏滅亡後、天正一〇年(一五八二)一〇月一三日原田二兵衛は立河二貫七〇〇文の地が本給であることを申告し、徳川氏はこれを承認して安堵している(「徳川家印判状写」御庫本古文書纂)

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改訂新版 世界大百科事典 「立川」の意味・わかりやすい解説

立川[市] (たちかわ)

東京都中部の市。1940年市制,63年砂川町を編入。人口17万9668(2010)。武蔵野台地上にあり,南端を多摩川が流れる。中世以来鎌倉街道の要衝で,武蔵七党の一族立川氏の居城があった。立川駅の南にある普済寺境内に館跡が残る。江戸時代には甲州道中の宿駅が置かれたが,大部分は甲州道中,五日市街道沿いの農村で,畑作のほか,養蚕や綿織業が行われていた。甲武鉄道(現,JR中央本線)が開通した1889年以降,再び三多摩交通の要地として発展したが,1922年に陸軍飛行連隊が所沢から移転,その後さらに陸軍航空技術研究所などの航空関連軍施設が相次いで設けられ,急激に軍都としての性格を強めた。立川飛行機,昭和飛行機などの民間航空機工場の進出も加わり人口が急増,市街地の拡大が進んだ。この間,1894年青梅(おうめ)線,1925年五日市線,27年南武線が開通し,立川駅を中心にした鉄道網も整備された。第2次大戦後は立川飛行場にアメリカ空軍が駐留し,基地の町として知られた。その後,基地拡張計画は地元砂川町住民の激しい抵抗で挫折した(砂川事件)。77年にアメリカ軍基地は撤去され,跡地は国営昭和記念公園,広域防災基地(陸上自衛隊立川駐屯地を含む)のほか,過密状態の市の中心部をひかえて都市再開発が進められている。北部を西武鉄道拝島線が通る。東京への通勤住宅都市でバス網が発達し,北の上北台から立川経由多摩センターまでの全長16kmの多摩都市モノレールも建設され(2000年全線開業),立川駅周辺はデパートや商店が密集する三多摩地方の商業中心地である。
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立川(山形) (たちかわ)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「立川」の意味・わかりやすい解説

立川
たちかわ

山形県北西部,庄内町中南部を占める旧町域。庄内平野の東部にある。最上川の支流立谷沢川の流域で,大部分が山地。 1954年立谷沢村,清川村,狩川町が合体し立川町が成立。町名は1町2村の名称を合成。 2005年余目町と合体して庄内町となった。慶長年間 (1596~1615) 狩川城主,北楯大学利長によりつくられた灌漑水路が通じ,約 4200haに及ぶ水田が開ける。農業が主産業で,米作が中心。中心集落の狩川とともに清川は最上川水運最盛時に河港として栄えた。狩川は羽黒山の登山基地。南部の月山東麓一帯は磐梯朝日国立公園に属し,月山は国の天然記念物。清川には幕末の志士清河八郎を記念する清河神社がある。

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百科事典マイペディア 「立川」の意味・わかりやすい解説

立川[町]【たちかわ】

山形県北西部,東田川(ひがしたがわ)郡の旧町。大半は最上川の支流立谷沢(たちやざわ)川の流域で,北端の庄内平野部に中心の狩川があり陸羽西(りくうさい)線が通じる。慶長年間北館大学によりつくられた灌漑(かんがい)水路が通じ,水田が広がる。南部は月山(がっさん)の山麓で,磐梯朝日国立公園に属する。2005年7月東田川郡余目町と合併し町制,庄内町となる。190.82km2。6910人(2003)。

立川[市]【たちかわ】

東京都中部,武蔵野台地にある市。1940年市制。中心市街は中世の武蔵七党の一族立川氏の居城地,鎌倉街道の要地,近世の甲州街道の宿場町であった。1922年陸軍の飛行場が設置されて以後急速に発展,第2次大戦中は航空機生産の一中心であった。中央本線,西武拝島線が通じ,青梅線,南武線が分岐し,多摩地区の一中心をなす商業・住宅都市になっている。電気機器・輸送用機器工業などが行われる。飛行場一帯は第2次大戦後米軍基地となり,1955年−1957年砂川事件が起きるなど基地問題が多かったが,1977年全面返還。跡地は陸上自衛隊駐屯地,広域防災基地,昭和記念公園(1983年)となっている。24.36km2。17万9668人(2010)。
→関連項目国立音楽大学

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世界大百科事典(旧版)内の立川の言及

【大豊[町]】より

…吉野川の上流域,四国山地中央部に位置し,北は愛媛県,東は徳島県に接する。吉野川の支流立川川に臨む立川の地は平安時代には官道が通り,江戸時代は参勤交代に利用され,土佐藩の道番所が置かれた。町の中央部を吉野川と支流の穴内川に沿って,土讃線,国道32号線が走り,高須などの集落が点在する。…

【東京[都]】より

…明治時代のこれらの工場はほとんどが城東・城北両地区に集中していたが,大正時代に入ると神奈川県の横浜・川崎の工業地帯に続く城南地区に機械工業を中心とする臨海工業地帯が発展しはじめ,とくに第1次大戦後大工場が立地するようになり,東京湾岸には1941年東京港,横浜港,川崎港を合わせた国際貿易港京浜港が開港し,横浜・川崎地区の工業地帯と一体となって京浜工業地帯を形成した。内陸部でも昭和初期に武蔵野,三鷹,田無(たなし)を中心に航空機などを中心とする新しい軍需関連の工業が興り,戦時中に府中,立川,昭島,日野にまで拡大した。戦後の60年以降,首都圏整備計画の一環として八王子・日野地区,青梅・羽村・福生(ふつさ)地区に電気,機械,自動車などの近代工業が導入され,新しい工業地帯が形成されている。…

※「立川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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