改訂新版 世界大百科事典 「新田集落」の意味・わかりやすい解説
新田集落 (しんでんしゅうらく)
戦国時代から近世末までの新田開発によって建設された集落。ただし,切添新田や持添新田は本村の高持百姓の農地増加を目的として開発したので,新集落は建設されない。新田集落は開発地の地形や開発目的によって集落形態が異なり,開発主体によって社会構造や経済機能も異なる。
集落形態は,開発地の地形によって集村,散村,列村,街村となる。集村は一般的で開発地の中の居住適地に新田百姓の家屋が密集し,新田百姓の経営耕地は分散している。干拓新田は海面干拓地の堤防上に農家が並んで列村となり,湖面干拓地は旧湖岸をめぐって列村が多い。経営耕地は家屋に近く比較的まとまっている。散村は砺波(となみ)平野,大井川デルタ,高梁川デルタなどにあり,事例は少ない。砺波平野では富山藩の規制により,高梁川デルタでは商品作物を栽培するために,本村の集村から二次的分散をして成立した。関東平野に多い街村は街道の両側に新田百姓の家屋が並び,それぞれの背後に所有耕地が均等な面積をもって短冊状の土地割りをなして作られ,計画的開拓路村といわれる。
新田集落の地域構造は,本村の採草地や干潟・湖沼に建設された場合が多かったので,肥料,薪炭の採取地は少なく,近世の水利権は本田重視,新田軽視であり,そのうえ新田は本村の用水末端に位置するから,用水不足に苦しんだ。人口が増加しても本村のように農地拡張の余地は小さかった。しかし新田検地は縄延びが大きく,検地面積に対して実面積は本村より広く,土地生産力は低いが,しだいに石盛よりも上昇した。
新田集落の社会構造は開発主体によって異なった。村請新田は本村地名を冠して新田地名とし,本村の名主の分家が新田の名主となり,親村と子村の関係がつづいた。見立新田(土豪開発新田)では開発中心者が名主を世襲し,年貢を納めない除地を所有し,所有面積も大きく,用水分配やその他の特権をもった。開発の労力と資材を新田百姓が提供し,新田百姓は自藩のみならず,他藩からも入植させた場合が多い。以上の新田百姓はいずれも高持であったが,西日本では,藩営新田は藩費で労賃を支払い,資材を購入して造成し,開発費を回収するために売却したので,豪商,豪農が土地を買い占め,これを小作農に耕作させる場合が多い。この新田百姓は自藩の百姓のみに限った。
新田百姓は年貢を納めれば,年間の食糧と再生産費が残るだけが一般的であった。しかし本村の本田とは異なり,新田には作付制限がなかったので,先進地の新田は商品作物の栽培地となり,その利益は大きかった。これに対して後進地の新田集落は米作,雑穀の産地にとどまった。
→新田
執筆者:菊地 利夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報