章士釗
しょうししょう / チャシーシチャオ
(1881―1973)
中国の政治家、学者。湖南(こなん)省長沙(ちょうさ)の人。字は行厳。清(しん)末『蘇報(そほう)』などで排満革命論を鼓吹、黄興(こうこう)らと華興会を結成。弾圧され日本、イギリスに留学。辛亥(しんがい)革命後帰国し『甲寅(こういん)雑誌』などで反袁世凱(えんせいがい)の論陣を張るが、革命派とはたもとを分かち政学系に属す。1924年段祺瑞(だんきずい)政権の司法総長兼教育総長、女師大事件で辞職。1949年国共和平会談の国府代表となるが、政治協商会議に出席。新中国成立(1949)後、同議員、全国人民代表大会湖南省代表などを務める。1973年香港(ホンコン)で客死。桐城派の流れをくむ文章家として著名。著書には『柳文指要』など。
[阿川修三]
『高田淳著『章炳麟・章士釗・魯迅――辛亥の死と生と』(1974・龍渓書舎)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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章 士釗
ショウ シショウ
Zhang Shi-zhao
07の政治家 元・中国人民政治協商会議代表;元・中国全国人民代表大会(全人代)代表;元・北京大学学長。
- 国籍
- 中国
- 生年
- 1881年
- 没年
- 1973年7月1日
- 出身地
- 湖南省長沙
- 別名
- 字=行厳,筆名=弧桐
- 経歴
- 清朝末の革命運動に章炳鱗、黄興らと参加し、激烈な廃満主義を主張する「蘇報」の主筆として活躍。清朝政府の弾圧を受け、1903年の蘇報事件後、日本を経て英国に留学。辛亥革命直後に帰国、北京大学学長となるがすぐに離職し、「民立報」主筆として宋教仁の国民党結成を支持した。’13年第二革命で敗北し、日本に亡命。亡命先の東京で雑誌「甲寅」を発行、袁世凱に反対し第三革命に参加。’19年南北和平会議に広東軍政府代表として出席。その後段祺瑞政府で司法総長、教育総長を務め、’25年の女師大事件、’26年の三一八事件の責任を問われた。抗日戦期には翼察政務委員会法制委員、国民大会代表などを歴任。’49年には南京政府代表として共和党と和平交渉を担当。以後北京に留まり、人民政治協商会議代表、全国人民代表大会(全人代)代表を務めた。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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章士釗 (しょうししょう)
Zhāng Shì zhāo
生没年:1882-1973
中国の文人政治家。湖南省長沙の人,字は行厳。日本,イギリスに留学,辛亥革命後に帰国し,《民立報》によって共和主義の論陣を張った。のち《甲寅》を東京で発行して反袁闘争に参加,政学系に属して広東軍政府秘書長にもなった。また段祺瑞政府の司法総長として1926年,三・一八事件(日本軍による大沽口占拠に抗議した民衆を弾圧した事件)を起こし,36年には冀察(きさつ)政務委員会の要職に就いた。しかし抗日の立場にたち,解放の際には北京にとどまった。解放後,中央文史研究館長等文人としての要職を多く兼ねた。毛沢東と近かったといわれる。
執筆者:狭間 直樹
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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章士釗 しょう-ししょう
1881-1973 中国のジャーナリスト。
光緒(こうしょ)7年2月21日生まれ。日本とイギリスに留学。辛亥(しんがい)革命後帰国し,「民立報」で共和主義をとなえる。大正3年日本に亡命,「甲寅雑誌」を発行して反袁世凱(えん-せいがい)の論陣をはる。段祺瑞(だん-きずい)政府の司法総長,冀察(きさつ)政務委員会委員などをつとめ,中華人民共和国成立後は全国人民代表大会代表。1973年7月1日死去。93歳。湖南省出身。字(あざな)は行厳。筆名は孤桐,秋桐など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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章 士釗 (しょう ししょう)
生年月日:1881年3月20日
中国の学者・政治家
1973年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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