竹内玄同(読み)たけうちげんどう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「竹内玄同」の意味・わかりやすい解説

竹内玄同(たけうちげんどう)
たけうちげんどう
(1805―1880)

幕末の洋方医。加賀(かが)国(石川県)大聖寺、竹内玄立の次男で、越前(えちぜん)国(福井県)丸岡藩医叔父の竹内玄秀の養子。名は(正)幹、号は西坡(せいは)・風香、玄同は字(あざな)。京都で藤林普山(1781―1836)に蘭(らん)学を、長崎シーボルト医学を学んだ。帰郷して丸岡藩医となるが、まもなく江戸に出て幕府の蘭書翻訳手伝となり、ショメルNoël Chomel(1632―1712)の『厚生新編』の訳業に参加。1857年(安政4)8月知友の戸塚静海伊東玄朴(げんぼく)らとともに神田お玉が池に種痘所を設立、1862年(文久2)取締。1858年将軍徳川家定(いえさだ)の侍医、法印に進み渭川院(いせんいん)の称を与えられ、西洋医学所取締を兼ねた。1863年将軍徳川家茂(いえもち)の上洛(じょうらく)に随行、家茂の発病に際し自らの眼病をおして治療にあたり失明した。1866年(慶応2)家茂が長州征伐の途次病没したのを機に職を辞して隠居、風青と号した。明治13年11月12日没。墓は東京都港区青山梅窓院にある。

[末中哲夫]


竹内玄同(たけのうちげんどう)
たけのうちげんどう

竹内玄同

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「竹内玄同」の意味・わかりやすい解説

竹内玄同
たけうちげんどう

[生]文化2(1805).大聖寺
[没]1880.11.12.
江戸時代末期の医師。名は幹,号は西坡および風香,字が玄同,院号は渭川院。代々丸岡藩 (福井県) の医官であった叔父玄秀の家を継いだ。京都の藤林普山から蘭学を修め,次いで長崎の P.シーボルトについて医学を学び,伊東玄朴,戸塚静海らと親交を結んだ。帰郷して藩医となったが,江戸に出て,天保 13 (1842) 年幕府の蘭書翻訳手伝を命じられた。安政5 (58) 年玄朴,静海とともに将軍徳川家定の侍医となった。幕府が奥医師に採用した最初の蘭方医である。のち法印に上り,西洋医学所の取締りを兼任,将軍家茂の侍医としてその看病に努めた。晩年失明し,すべての公職を退いて隠棲した。

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朝日日本歴史人物事典 「竹内玄同」の解説

竹内玄同

没年:明治13.1.12(1880)
生年:文化2(1805)
江戸末期の洋方医。加賀国(石川県)大聖寺町の竹内玄立の次男として誕生,越前丸岡藩医の叔父玄秀の養子となった。名は幹,西坡と号した。京都で藤林普山に蘭学を学び,長崎へ遊学してシーボルト門下となった。天保4(1833)年藩主侍医として出府し,同13年江戸幕府天文方訳員に選ばれ『厚生新編』翻訳に参加した。安政5(1858)年重病の将軍徳川家定の侍医に伊東玄朴らと共に洋方内科医とし初めて登用された。西洋医学所頭取を兼ね,法印に叙せられ,渭川院と称された。次の将軍家茂にも尽くしたが,自身は眼疾が悪化し失明。慶応2(1866)年家茂病没とともに引退して風流人として終える。

(石山洋)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「竹内玄同」の解説

竹内玄同 たけのうち-げんどう

1805-1880 江戸時代後期の医師。
文化2年生まれ。京都で藤林普山に蘭学を,長崎でシーボルトに医学をまなぶ。将軍徳川家定(いえさだ)の侍医となり西洋医学所頭取をかねる。文久3年京都で発病した将軍家茂(いえもち)の治療にあたるが,自分の眼病が悪化して失明,慶応2年隠居した。明治13年1月12日死去。76歳。加賀(石川県)出身。名は幹。号は西坡,風香。

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