明治期の外交官,漢学者。字は光鴻(こうこう)。井井と号した。肥後天草の人。幕末・維新期に熊本藩のため京都,江戸に奔命した。1875年,伊藤博文らの知遇で森有礼に随行して渡清し,さらに翌76年,中国内地を旅行し《桟雲峡雨日記》を著す。大蔵省勤務をへて80年天津領事となり,琉球分島問題で井上毅らと清政府に交渉した。壬午軍乱で花房義質(よしもと)の後任韓国公使としてソウル(京城)入りし,独立党の金玉均,朴泳孝らを助け日本勢力の扶植に努めたが,84年暮れの独立党クーデタ(甲申政変)に日本軍を王宮に進めながら清軍に反撃され,失敗した。翌85年帰国,経書研究に転じ,帝国大学文科大学教授(1893-95)として漢学を講じた。1914年《左氏会箋》で学士院賞を受賞。
執筆者:戸川 芳郎
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(森山茂徳)
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…封建制度を残したまま資本主義列強に開国した(1876)朝鮮にとって,国内体制の近代的改革は焦眉の問題となった。1884年8月にインドシナ問題をめぐる清仏戦争が起こり,開化派は一挙に守旧派から奪権すべく日本公使竹添進一郎の協力を求め,同年12月4日洪英植を総弁とする郵政局開設宴に参席した守旧派に対するクーデタをのろしとして行動を開始した。金玉均,洪英植,朴泳孝らは,士官学生や壮士を指揮して国王高宗と王妃の閔妃(びんひ)を守旧派から隔離させ,日本軍の出動を求めて護衛した。…
※「竹添進一郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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