改訂新版 世界大百科事典 「符坂油座」の意味・わかりやすい解説
符坂油座 (ふさかあぶらざ)
中世,符坂の地(現,奈良市油阪町付近)を中心に,興福寺大乗院に保護されて繁栄した油座。この座衆は大乗院門跡に奉仕する寄人と春日社若宮の神木帰座などに従事する白人神人(はくじんじにん)の身分を兼ね,すでに鎌倉時代から特権的営業を認められていた。ほかに東大寺油問職・問丸の役割も果たし,木津の法華寺や長谷寺の油問丸を兼ねたこともある。座衆の特権は,大和一円,とくに南大和(吉野地方)に産する木実,エゴマ,および河内や紀伊のゴマ,あるいは矢木仲買座が販売するエゴマの仕入権と,灯油の製造・販売の独占権であった。興福寺,一乗院,大乗院や東大寺油倉から大仏殿,二月堂などに供給される東大寺の需要油のほか,奈良や近郊における油は符坂油座が独占的に営業したが,ただ例外的に大乗院,春日若宮に油貢納の義務を負った摂津国天王寺木村油商人は,鎌倉末期から奈良一帯に営業を認められていた。また同じころから,南大和の交通の要衝にあたる矢木(八木。現,橿原市)を中心に矢木座が出現し,大乗院に属して矢木仲買座とも駄賃座ともいわれ,符坂を本座と仰いでいた。もともと符坂油座に原料ゴマを供給するものだったと思われるが,南北朝期ころから顕著となる近郊農村地域の経済的発展を背景に矢木座の勢力も伸張し,応永および文明年間に油の原料ゴマの購入・仕入れをめぐって争論をおこしている。木村油商人は興福寺六方衆および衆徒身分をもつ古市・竜田氏の勢力を背景とし,矢木座の座衆は興福寺国民十市氏らの被官だった。このような新興の油座に対して,旧来の都市座である符坂油座は鎌倉から室町時代に勢力をふるい,応永年間の矢木座との争いも符坂本座が勝利を握った。しかし室町末期には,一時解体離散する危機に直面したが,のち1563年(永禄6)春日若宮社を頼って今辻子郷にもどって座を結成し,その活動は江戸時代(慶長年間)における組合仲間の再興にまで及んだ。
→油座
執筆者:小西 瑞恵
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報