築地別院(読み)ツキジベツイン

デジタル大辞泉 「築地別院」の意味・読み・例文・類語

つきじ‐べついん〔つきヂベツヰン〕【築地別院】

築地本願寺」の旧称。

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精選版 日本国語大辞典 「築地別院」の意味・読み・例文・類語

つきじ‐べついんつきヂベツヰン【築地別院】

  1. 東京都中央区築地にある浄土真宗本願寺派の寺、本願寺築地別院の略称。

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日本歴史地名大系 「築地別院」の解説

築地別院
つきじべついん

[現在地名]中央区築地三丁目

京都市下京区にある浄土真宗本願寺派本願寺(通称西本願寺)の別院。近代に入って別院自身も使用した築地本願寺という呼称は俗称。法人名は本願寺築地別院。本山の御堂衆で築地別院の輪番として安永二年(一七七三)に赴任した経験をもつ慶証寺玄智が「江戸築地ノ御坊ハ東方ノ巨鎮ニシテ諸国別院ノ中ニ於テ最大トス」(「祖門旧事紀」龍谷大学蔵)と記すように、本願寺教団の幕府への直接の窓口となるとともに、録所・触頭制下の録所として江戸城下はもちろん、東国一三ヵ国(武蔵・駿河・甲斐・伊豆・相模・下総・上総・常陸・安房・上野・下野・陸奥・出羽)の約五五〇ヵ寺の本願寺派の寺院を本末関係を越えて統括していた(「東国十三ヶ国末寺帳」善林寺蔵)。別院住職は本山の宗主であるが、創建当初は別としてその代行である本山の御堂衆が輪番となって現地に赴任し、江戸城下の有力門徒留守居として輪番を補佐する体制で運営されていた。

創建事情の詳細は慶証寺玄智も「創建ノ事縁ハ不肖築地輪番ノ節旧記ヲ捜索スレトモ検シ得ス」(祖門旧事紀)と嘆じたように、一八世紀にはすでに不明となっていた。しかし年不詳二月一四日付称名寺・惣坊主衆中・惣門徒衆中宛の本願寺御印書(茨城県結城市称名寺蔵)に「今度於江戸、御門跡様へ従両御所様御屋敷被参候、就其近日可被御普請旨候、各馳走之儀頼被思食候」とみえ、この御印書包紙には後筆ながら「慶長十二年戊申 信慶代」とみえることから、慶長一二年(一六〇七)徳川家康・秀忠から江戸の屋敷地を拝領し、これが築地別院の基礎となったものと考えられる。同日付同文の御印書(神奈川県横須賀市最宝寺蔵)は相模国最宝寺・惣坊主衆中・惣門徒衆中宛にも発給されており、屋敷普請のための人足を構成するまとまった門徒団が江戸にはまだそれほど形成されていなかったことが考えられる。玄智は「一云」として「於浜町、合善永・妙延・称揚・実相四寺敷地、創建御坊」(大谷本願寺通紀)という説も紹介しており、前記の屋敷地が寺地ではなく、あくまで屋敷地であったとすれば、この説にも一考する余地が発生する。しかしいずれにしても金宝寺明専の「紫雲殿由縁記」に「寛永二年二月六日本門主御用関東エ下向、東武首尾能被仰付、三月十一日帰京(中略)予而御願望タル江戸ニオヰテ兼帯所ノ義、裏方モ首尾能御許容ノ御事ナリ」とあり、本山の宗主が住職を兼帯する寺院として幕府より公認されたのは寛永二年(一六二五)であったので、創建当初は本願寺にとっては御坊・兼帯所であっても公的には本願寺の「屋敷」でしかなかった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の築地別院の言及

【築地本願寺】より

…東京都中央区にある浄土真宗本願寺派(西本願寺)の別院。築地別院ともいう。1617年(元和3,一説に1621年)本願寺12世准如が浜町に創建,57年(明暦3)火災にあい,翌年現在の築地に移った。…

※「築地別院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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