伊東忠太(読み)イトウチュウタ

デジタル大辞泉 「伊東忠太」の意味・読み・例文・類語

いとう‐ちゅうた【伊東忠太】

[1867~1954]建築学者。山形の生まれ。東大教授。日本の古建築や中国インド遺跡を調査し、建築史学樹立明治神宮平安神宮築地本願寺などを設計文化勲章受章。著「法隆寺建築論」など。

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精選版 日本国語大辞典 「伊東忠太」の意味・読み・例文・類語

いとう‐ちゅうた【伊東忠太】

  1. 建築学者。東京帝国大学教授。日本、東洋の古建築の研究で知られ、明治神宮、築地本願寺本堂などを設計。文化勲章受章。慶応三~昭和二九年(一八六七‐一九五四

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20世紀日本人名事典 「伊東忠太」の解説

伊東 忠太
イトウ チュウタ

明治〜昭和期の建築史学者,建築家 東京帝国大学名誉教授



生年
慶応3年10月26日(1867年)

没年
昭和29(1954)年4月7日

出生地
出羽米沢(山形県米沢市)

別名
号=紅雲

学歴〔年〕
帝大工科大学(現・東大工学部)造家学科〔明治25年〕卒

学位〔年〕
工学博士(東京帝大)〔明治34年〕

主な受賞名〔年〕
文化勲章〔昭和18年〕,文化功労者〔昭和26年〕

経歴
明治26年東京美術学校講師、30年東京帝大工科大学講師、31年造神宮技師兼内務技師、32年東京帝大工科大学助教授。35〜37年中国、インド、トルコの建築史関係遺跡を踏査、雲崗石窟を世界に紹介した。帰国後の38年東京帝国大学教授に就任。昭和3年定年退官、名誉教授。3〜13年早稲田大学教授も務めた。この間、明治26年「法隆寺建築論」を書き法隆寺研究の道をひらき、日本建築史・日本文化史研究に大きな功績を残す。また造家学を建築学に改称することを提唱。建築家としては代表作に「平安神宮」「明治神宮神殿」「大倉集古館」「震災記念堂」「築地本願寺本堂」などがある。学士院会員、芸術院会員として長く建築界の重鎮であり、昭和18年には文化勲章を受章した。著書に「伊東忠太建築文献」(全6巻)「北京紫禁城の建築」「支那建築装飾」(全5巻)「日本建築の美」「伊東忠太見聞野帖―清国」、時事漫画集「阿修羅帖」、「伊東忠太著作集」(全11巻 原書房)などがある。

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改訂新版 世界大百科事典 「伊東忠太」の意味・わかりやすい解説

伊東忠太 (いとうちゅうた)
生没年:1867-1954(慶応3-昭和29)

建築家,建築史学者。米沢市に生まれる。1892年帝国大学工科大学造家学科を卒業。《法隆寺建築論》(1898)により,日本建築史研究の端緒をつけ,また古社寺保存会委員(1896)となり古建築の保存と研究のみちを開いた。1905年東京帝国大学工科大学教授。初期の研究では岡倉天心の影響を受けて,日本建築史の体系化と東洋と比較した日本建築の特質抽出に関心を持ち,東洋建築史の体系化とあわせて雲岡石窟を世界に紹介した。大正期以降主要な活動は建築設計に移り,明治神宮(1920),朝鮮神宮(1925)など主要な創建神社の多くを手がけた。また震災記念堂(1930),築地西本願寺本堂(1934)などで,日本および東洋建築の細部を用いながら西欧的な手法により立体として再構成し,新しい日本建築を生み出すことに意を用いた。39年日独文化交換教授として渡独,43年文化勲章。著書に《伊東忠太建築文献》《支那建築装飾》がある。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊東忠太」の意味・わかりやすい解説

伊東忠太
いとうちゅうた
(1867―1954)

建築家、建築史家。山形県米沢(よねざわ)に生まれる。1892年(明治25)帝国大学工科大学造家学科卒業後、大学院に進み、日本建築史の研究に着手、翌1893年『法隆寺建築論』を発表。また同年から東京美術学校の講師となり岡倉天心の影響を受ける。1899年東京帝国大学助教授、1905年(明治38)教授。この間、日本建築の源流を求めて中国、インド、トルコなどに旅行し、雲崗(うんこう)の石窟(せっくつ)を発見。日本および東洋建築史の学問的体系を樹立するなど、日本最初の建築史家として活躍。また内務技師、古社寺保存会委員、国宝保存会委員として神社の造営、文化財の保存に尽くした。東大名誉教授、学士院会員、芸術院会員。1943年(昭和18)文化勲章受章。著書に『伊東忠太建築文献』『支那(しな)建築装飾』など、おもな建築作品に平安神宮(1895)、明治神宮(1920)、大倉集古館(1927)、築地(つきじ)本願寺(1934)などがある。

[天田起雄]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「伊東忠太」の意味・わかりやすい解説

伊東忠太
いとうちゅうた

[生]慶応3(1867).米沢
[没]1954.4.7. 東京
建築家,建築史家。 1892年東京大学造家学科卒業,1905年より同大学教授,のち名誉教授。東洋および日本の建築史の体系を初めて樹立し,文化財の保存に尽した。学士院会員,日本芸術院会員,43年文化勲章受章。 02年関野貞とともに中国の雲崗石窟を初めて日本に紹介した。主要作品は,平安神宮 (1895) ,明治神宮 (1920) ,築地本願寺 (34) など。主著『伊東忠太建築文献』『支那建築装飾』など。

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百科事典マイペディア 「伊東忠太」の意味・わかりやすい解説

伊東忠太【いとうちゅうた】

建築家,建築史学者。米沢市出身,帝国大学工科大学造家学科卒。日本・東洋古建築を学問的に体系づけた最初の人。東大,早大で建築史を講じ,また国宝保存会委員として古建築保存に尽力。実作では築地本願寺(1934年)のほか,明治神宮(1920年)など主要な創建神社の多くを手がけた。1943年文化勲章。著書《支那建築装飾》。
→関連項目辰野金吾

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「伊東忠太」の解説

伊東忠太 いとう-ちゅうた

1867-1954 明治-昭和時代の建築家,建築史学者。
慶応3年10月26日生まれ。明治38年東京帝大教授となる。昭和3年早大教授。「法隆寺建築論」で日本建築史研究の道をひらく。中国,インドなどの遺跡を調査し,雲崗(うんこう)石窟を世界にはじめて紹介。また平安神宮,築地本願寺などを設計した。18年文化勲章。昭和29年4月7日死去。86歳。出羽(でわ)米沢(山形県)出身。帝国大学卒。

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367日誕生日大事典 「伊東忠太」の解説

伊東 忠太 (いとう ちゅうた)

生年月日:1867年10月26日
明治時代-昭和時代の建築家;建築史学者
1954年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の伊東忠太の言及

【雲岡石窟】より

…武周山に面した高さ20~30mの北の崖面(砂岩)に並び,南面した大窟21(第1洞から第20洞および第39洞),中小窟20,磨崖仏龕(がん)約120があり,全長3kmに及ぶが,主要な石窟は1kmの中に集中している。1902年(光緒28)伊東忠太が踏査して重要性を指摘。07年にE.シャバンヌがはじめて多数の写真を撮影,石窟番号を与えて発表した。…

【建築】より

…〈建築〉という用語は比較的新しく,1897年(明治30)に造家(ぞうか)学会が建築学会と改称してから公認されたもので,建築学者の伊東忠太がアーキテクチャーarchitectureに対応する新語として提案した。それまでは,土木建築工事一般を〈普請(ふしん)〉,建物に関する工事を〈作事(さくじ)〉と呼んでいた。…

※「伊東忠太」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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